平和運動をしている人自体が平和ではない様子を見かける。反戦を唱えたり、平和を乱す言動に対して抗議やデモを行う人自体が精神的に不安定である様子を見かける。ニュースでは批判が仕事であるかのようなコメンテーターと、それに賛同したり反対したりする視聴者がおり、その双方においてはいかなる平和もない。裁く者は裁かれるだろう。分離する者には理解も愛も訪れないだろう。我々は、自身が本当は平和を知らないことをいつかは認める必要がある。自らの気の乱れにいかようもなく翻弄されており、悲しいばかりに迷っていることを認める必要がある。そして批判と非難からは距離を置く必要がある。
世界はひどい状態なのだろうか。何の世界のことだろうか。私には美しく見えるのだが。平和を乱す者、悪逆非道を為す者らを許せないと人は言うが、そう怒りに燃えているならば、おそらく平和を乱しているのではないのだろうか。悪や、自身を脅かすものに対して、同様の悪で応じなければ身を守れないというのが我々の主張である。武器に対しては武器で応じ、恫喝に対してはそれを上回る恫喝を模索する。根底にあるのは恐怖である。そして我々は、恐怖がイリュージョンであることを忘れている。世界も、肉体としての私も、本質的にイリュージョンであることを忘れ、この世が唯一の現実であると錯覚し、自身がこの世という現実に属している一箇の個人であるという思想に傾倒し続けている。
恐怖から自由なとき、攻撃してくる者を攻撃しようとするであろうか。「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と言ったのは誰であったか。非暴力は、ガンジーやキング牧師など、理想を求める自我の涙ぐましい個人的忍耐と努力によって過剰に美徳化され、その本来の意味を見失わせている。また、非暴力と不服従がしばしばセットになっているが、真の非暴力とは高位を含むあらゆるものへの魂的な無抵抗、すなわち不服従ではなく高位への服従を意味し、服従による調和、調和による一体化、一体ゆえの愛、そして愛ゆえの無恐怖を基盤にするものである。人々の非暴力は自我の獣性に対する抵抗である。恐怖に対する別の形の抵抗である。政治的あるいは宗教的なハンガーストライキであれ、自らに火をつける焼身自殺であれ、別の形の恐怖や不安への抵抗であり、「自己犠牲」の間違った解釈による悲劇的な自我のパフォーマンスである。この種の無知は、何が実在であるかを識別できず、生命と形態を同じものとみなすことで情緒的もしくはメンタル的に激しく混乱した自我の末路である。彼らに必要だったのは、混迷をきわめる世界への対処法ではなく、自身への対処法だけであった。
我々はまだ平和を知らない。世界の平和ではなく、内なる平和を知らない。内なる平和だけが世界の平和に寄与できる。自身の気の乱れを調整し調和させた者だけが、世界の乱れを修正しうる力を持つ。純粋な者だけが、そのような力を伝導しうる媒体になる。恐怖に恐怖で抵抗したり、武力に武力で応じようとしたり、殺されないためには殺してしまおうという考えに取り憑かれたり、自身の狂った情緒や思想などの気の乱れを、乱れる以前の気と調和させるべく、錯覚から目をつむり、まず己の平和を知ろうとする者は稀である。内側が平和でなくして、外側を平和にした者は一人もいない。「内側の平和」とは何のことだろうか。我々の内部の争いとは実際問題、何なのであろうか。心かき乱されること、気分や機嫌に翻弄されること、これらは一体どのような仕組みなのであろうか。これらに影響を全く受けることなく、逆にこれら気の乱れを人間は統御できるということが知られていないのはなぜであろうか。
解決法が分からず迷っている全ての人々に解決の道を示したい。ある人には世界は地獄で、別の人には世界が天国でありうるのは何ゆえか。通常の人間の天国すなわち身体的かつ情緒的な心地よさ、快適さ、安心、それらを与えてくれる金銭や誰か別の人、これらが失われてもなお影響を受けることのない地上の天国について私は語っている。世界の見え方・感じ方は、その者の意識の問題である。率直に言い換えると、低い意識レベルで我々が生きているという事実が、世界や人生の混乱の原因である。低い意識は高い意識になりうるのだろうか。つまり、意識レベルは何によって変わるのであろうか。
意識段階は形態の性質によって決まる。
アリス・ベイリー「秘教心理学・第一巻」p.96
植物に霊つまり生命が宿るとき、植物の意識になるだろう。動物や鉱物でも同じことである。その中でも様々な段階があるだろう。人間にあっては、「形態」は肉体だけではなく、アストラル体とメンタル体が含まれる。これらの三位で、パーソナリティー意識という個人における三位一体の意識が形成されている。霊つまり生命が形態に宿るのは、様々な形態をかたち作る材料――エーテル的な質料が原因である。この質料は、段階つまり等級という意味では、無数の万物においてレベルの差がある。それは波動のレベルの差、形態を持つものが必ず固有の振動をもつように、形態の材料である質料もまた同じことで、引用が「形態の性質」と呼ぶものは、簡単に言えば、形態の材料による総合的な波動の振動率や、その振動率や表現への条件づけのことである。質料が何によって条件づけられているのかを見ると理解できることだが、もっと明確に言えば、質料のカルマの問題である。
秘教徒はいつも質料を扱っているのであり、様々な界層を形成している生き生きとした振動する質料を扱っているのである。しかしその質料は、以前の太陽系から受け継がれたものであるため、過去の出来事に色づけられており、「すでにカルマに染まっている」のである。
新しい時代の教育 p.109
すべての質料に光が内在している。瞑想を始めたばかりの人が、肉体原子の光を見たりするのはそのためであるが、重要なことは、質料の光を魂の光と混ぜ合わせ、引き上げることである。これを専門的に言えばフォースに対するエネルギーの適用である。我々が瞑想しているとき、最初は無意識であるが、このような作用つまり効能が発揮されており、その結果として多少なりとも意識の変化を体験する。我々がより魂の光と交わるようになるにつれ、より知的になり、より意識的になり、理解した状態で自身を形成する質料を肉体、アストラル体、メンタル体と、順次扱えるようになる。しかしながら、それが可能になるのは見習いの道の途中からである。彼がアストラル体の質料つまりフォースを魂に服従させたとき、アストラル体は感情や情緒ではなく、ブッディ体を少なからず反映できるようになり、このとき彼は初めて平和を理解するようになるだろう。人間の意識ではない、新しい領域の意識に気づくようになるだろう。あとはこの意識を安定させるだけである。したがって第二イニシエーション前後から進歩が急速化される意味が理解されるであろう。
意識状態つまり認識状態は、高位のイニシエーションを受けたときに超越され、その状態は、一体化という満足のいかない言葉以外に言葉がない存在状態によって満たされる。この存在状態は、あなた方が理解するような意識とは非常に異なるものである。
光線とイニシエーション上 p.114
この意識が遠い存在ではないことを説明するために672夜は存在しているようなものである。「それは聖者の意識であって私には関係ない」と思わせないよう説得できるかが、目的の一つである。自我は傷つきたくないし、また自我でありたいため、逃げることが最も容易である。例えば、「私と覚者」という距離感に満足しようとする。それでも構わないが、いつか辛さに耐えられなくなるだろう。その矮小な自己に甘んじることのデメリットの方が大きすぎるという事実を認めざるをえないような経験にぶつかるだろう。「私と覚者」という分離の壁は乗り越えられねばならない。「私と神」も同じことである。本質においてはいかなる分離もない。この意識を可能にさせるのは、我々の諸体が波動的に高く引き上げられたときだけである。ある割合、ある比率において、秘教徒がイニシエーションと呼んでいるものが起こり、波動の恒久的な安定化と、新しい視界と意識の開拓が可能になる。これを書いているのは11月の明け方で、ちょうど窓から朝の太陽の光が照らし出されてきたところである。まぶしさの中に美しさがある。熱がある。明るい希望がある。我々の夜明けもこのようなものになるだろう。徐々に光は増し、太陽天使は頭上に輝きを放ち、ついには「すべての人間的な自分本位と利己主義が神の意志の明るい光の中で消え去る」。瞑想は、目をつむることは、光である。
