アートマンは死んだ心、つまり想念のない、内側に向かった心によって実現される。そのとき、心はそれ自身の源を見て真我となるのである。それは主体が客体を知覚するような状態ではない。
ラマナ・マハルシ「あるがままに」 p.92
実際起こることは、アートマンつまり魂の感覚が徐々に自我意識を上回り、最後に破壊を引き起こすだけである。「内側に向かった心」は、自我の瞑想における努力ではなく、魂のエネルギーの引力が諸体のフォースの引力を制圧した結果、強力な内的集中が起きただけである。そのとき、自我つまり想念は、あらゆる想念の源である「私」を超えて魂をありのままに直観し、それ自体のパワーによって想念のない安定状態を知り、三界からの孤立という最高の純粋にとどまるのである。それは目を開けて活動していようが、魂が個人という外へ向かう統一体を統御している限りは続く。一切のプロセスを引き起こしてきたのは自我でも彼の自由意志でもなく、魂を通して働く真我である。自我は騒音であるためこれに気づかないが、やがて主体の知覚が主体を打ち消す。それは神秘的な状態ではなく、単なる意識である。それは想念による限定を受けないため自由であり、自我の幸福や不幸を背負わないため静かで美しい。したがって、
心が真我である至高の意識のなかに消え去るとき、好む力、行う力、知る力といった様々な力も自意識のなかに現れた想像の産物として見られ、完全に消え去る。
ラマナ・マハルシ「あるがままに」 p.92
これが自然な状態になる。何が自然かと言うと、三界におけるフォースとのたえまない衝突がないことが自然なのである。それは単に調和した状態、自我という彷徨う無知が、彼方より立ち現れたかに最初は感じられる魂の磁力に対し、自発的に従うことで整列している状態である。諸体のフォースが、エネルギーの純粋な流れを妨げなくなった状態であるため、「好む力、行う力、知る力」という自我のフォースは機能しない。もし機能するならば、それが衝突であり、ひどい摩擦の苦痛を引き起こすだろう。ゆえに真我以外はすべて苦痛だと瞑想者は知るのである。一なるエネルギーつまり真我に従っている状態だけが自我つまりフォース体のいわば「好み」になるのである。これが知恵に安らいだ状態である。したがって、
心の本質は覚醒あるいは意識である。しかしながら、自我が心を支配するとき、それは理性、思考あるいは感覚機能として働く。自我によって限定されない普遍的心は、それ自体から分離していない。それゆえ、それはただ気づいている。
ラマナ・マハルシ「あるがままに」 p.92
想念がないとき、われわれは意識であり、それは全的に鋭敏に気づいている。それは長年の瞑想によって自我の生命力が弱まることで真我の覚醒に従っている状態であり、自我からすれば、とても心地がよいということになる。この至福を自我は深く求めるようになり、そのためには自身が完全に普遍へ吸収されねばならないことをますます理解する。人は行為者の地位から退き、自分という錯覚の重荷が放下されるのを見る。こうして無知は、何を自分と呼び、どのような状態が自我つまり衝突なのかを理解し、そのような無意味つまり苦痛に関心を持つことができない状態を引き起こすのが真我つまり魂であることに満足し、ひたすらに安らぐ。結果、養分の欠如によって錯覚は餓死し、実在が自然であり絶対であるという境地を実現する。
自我から見た順序
- 魂の波動との接触。このエネルギーはヘッド・センターから流入し、眉のラインまで降り、頭部の上半球を満たす。これを脳意識で確認する。最初は不定期に、やがて24時間流入が続くようになり、このパワーが人間に瞑想を強いるようになる。つまり自我として活動しすぎると波動が落ち、それを魂が許容しなくなる。瞑想し、波動を再び高みに引き上げないと苦痛のあまり生活できなくなる。こうして魂が強引に個人に教えるようになる。この強引さは瞑想の進歩に依存する。
- 魂のエネルギーの活用。流入後、自我はアジュナ・センターを通してエネルギーを方向づけ、自我の騒音つまり衝突しているフォースに対して従属させるエネルギー振動を課すことができるようになる。これは何が真我からのもので、何が自我の動きであるかの識別を伴う。つまり、瞑想者はエネルギーとフォースを区別できるようになる。この段階で自我は、主にアストラル・フォースを支配することを学ぶ。これにより、欲求や情緒的な性質の引力に免疫を得る。つまり、かなりの割合、反応できなくなる。したがって最初に超越されるのはアストラル界である。
- 活用者自身への方向転換。この段階で「私」が問題になる。アストラル体はメンタル偏極した自我意識で統御できるが、その自我意識が次は超越の対象となる。メンタル界への戦場の移行。超越のための橋つまりアンターカラナを構築する後半で、アルタ・メイジャー・センターが機能を開始し、頭部の三つのセンターの三角形が確立され、クンダリーニの火の上昇と循環の環境を整える。この戦いは人間を狼狽させる。彼の死を意味するからである。そして、心が心に挑む方法が心には分からないためである。その答えは、魂との接触の強化による自身への完全な無関心の育成である。瞑想の積み重ね。これで着実に自我の生命力は弱まる。この瞑想は日常との区別を知らない最終局面へ向けた完全瞑想である。これにより、真我である自身の意識が強くなり、想念は自動的に消滅へ向かう。自我は努力で集中しようとするが、真の瞑想は魂が自我である想念を自然に黙らせるものである。人間は自分の正体を知り、自分がないことを理解する。彼は真の自分を知り、それに従属することを選択し、静寂の中に没し去る。