努力なき瞑想へ

想念が起こるたびに拒絶していくことにはきりがないとあなたは想像している。それは本当ではない。終わりは来る。もし油断なく、想念が起こるたびに拒絶するよう断固とした努力をつづければ、すぐにも内なる自己のなかへ深く、より深く入っていくのがわかるだろう。この段階に至れば、想念を拒絶する努力は必要なくなる。

ラマナ・マハルシ「あるがままに」p.103

この引用には注意が必要である。そのまま受け取り、自我で強引に努力し続けるならば、脳に危険なダメージを与える可能性がある。「終わりは来る」。それは努力しようと試みている自我ではなく、真我つまり魂が来て終わらせにかかるのである。自我ができなかったこと、挫折したこと全てをこの魂が恐るべき力で成し遂げるのを自我は見る。そして、最初は錯覚し、自分の力で達成したかのように思う。この高慢が過ぎ去るとき、その驚異的な力こそが真我であることを自我は認め、協力するという次の感覚(錯覚)に移行するだろう。その意味での「断固とした努力」と受け取るべきである。したがって、最初の引用は以下の引用とあわせて注意深く考察される必要がある。

これ(自我の格闘)は人々がしばしば犯す誤りだ。あなたが真剣に真我を探究するときに起こることとは、「私」という想念が消え去り、探究を始めた「私」ではなく、深淵から別の何かが現れ、あなたをつかむのである。……(その別の何かとは)真我である。それは自我ではない。それは至高の存在そのものである。

ラマナ・マハルシ「あるがままに」p.102

すべてはより高位のものの力に無力である。肉体はアストラル体とメンタル体の奴隷であり、感情や欲求、思考に従っている。アストラル体は、(メンタル偏極した)メンタル体によるエネルギーの方向づけによって従順になる。メンタル体つまり人間がマインドや精神と呼ぶものは、コーザル体つまり魂によって統御される。我々が魂や真我を強調する理由はここにある。自我で無理やりにでも努力するならば、

自我あるいは心を破壊しようと試みることは、警官になりすました泥棒が、泥棒すなわち自分自身を捕まえようと装っているようなものである。

ラマナ・マハルシ「あるがままに」p.96

ここに一切の努力の無意味さが知られることになる。しかし、自我は自分が行為を引き起こす源であると考えている。彼は自由意志の崇拝者であり、自分というものに執着を持っている。だから、そう思わせるマインドが活発なときは、自我は自分で努力を行う感覚に見舞われることになる。彼にとって、行為者が自分ではないという考え方は仮定にしかならない。瞑想を通し、マインドが静かになり、自我がその生命力を失い続けるにつれ、行為しているという感覚が薄れていく。肉体を動かしているのは、先にも言った通り、アストラル体とメンタル体である。換言すれば情緒や欲望や想念である。これらが静まったならばどうだろうか。肉体を動かしているのは自分つまり思考ではなくなる。ここを考えるべきである。

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いったい自我である私はどうすればいいのか

次は当然ながらこの質問になる。自我の道具は思考であるため、方法論が必要になる。しかし、方法を与えると自我は喜ぶ。つまり、かえって自我を強くするのである。そして、間違いなくどのような方法にも失敗し挫折する。再び、自我で自我を壊そうという愚を犯すのである。自我は無力である。まったく何の力も才覚も持ち合わせていない。彼は自分が瞑想していると信じているが、実際は瞑想を邪魔している事実にそろそろ恥じ入るべきである。ここで大きなヒントがある。三段のブロックがあるが一段ずつしか飛べないとしよう。すると三つの試みがある。

  1. いきなり三段を飛ぼうとする人。これは失敗する運命にある。
  2. 一段登ってから、二段を飛ぼうとする人。これも届かぬ運命にある。
  3. 時間をかけて二段登ってから、最後の一段を飛ぶ人。これは必然的に成功する。

ここで言う二段とは、最初に肉体の統御、次にアストラル体の統御である。これを終えてから三段目、つまりメンタル体に挑戦すべきである。すると超越可能な課題になる。人々は嫌がる。アストラル体に偏極しているため、欲望が強く、すぐに効果が欲しい。恐れも強く、この生涯で何としてでも達成したい。このように思わせる情緒を克服するのがアストラル界の超越である。この階段を多くの人が知らないため、無謀な挑戦と苦悩がいたるところに跋扈している。なぜ我々は性急になるのだろうか。なぜ一つの生涯を特別視してやまないのだろうか。このような焦り、アストラル騒音がほとんどの瞑想者の壁になっている。多くの熱心な瞑想者は肉体の統御はそれほど問題になっていない。だからアストラル体から始めるべきである。それが静まったなら、魂と接触できるようになる。すると、唯一マインドを支配しうる者が瞑想に力を貸し始めるのである。

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