原初の私

内在とは何か

個人意識の観点から、「内在」や「内的」といった表現を用いることはありますが、その「内在者」は実際に私たちの内側に存在しているのでしょうか。「私」と「内在者」が分離なく同一のものであるならば、内と外という関係性は果たして成立するのでしょうか。この世界を眺めつつ二元の視点に立つとしても、まず内と外の関係は逆転しなければなりません。肉体や心の内側を「私」とするのではなく、まず「私が原初である」という意識・認識に立ち返ることはできるでしょうか。確認してみてください。もしこれを完全に理解するならば、そこには、強烈な「私」への一点集中が生じるはずです。

私と世界の転換

その瞬間、あらゆるものは「私」に包摂されます。これまで内在すると考えられてきたものが、原初の私として現前し「現在する」ならば、視点の入れ替えだけで、目を開けたまま、錯覚を超越することが可能ではないでしょうか。そしてそれは、強烈な覚醒感を伴うものではないでしょうか。あらゆるものの意識が私の意識となり、例えば眼前に犬がいるならば、犬に意識を向けた瞬間、犬の意識を共有することになります。犬が何を感じ、何を表現したいのかを私として感じ、犬として認識されてきたものの本質と即座に合一するのです。そのとき、目を向ける事物すべてにおいて、このような意識の共有と包摂が生じ、その一体的な意識を、私たちは「愛」として認識するようになるのです。

「すべての内に神を見る」という誤解

「すべてのものの内に神を見よ」との教えがあります。しかし、この教えにそのまま沿うならば、「すべてのもの」を最初に認めることにならないでしょうか。ここに、すでに誤りがあります。まず「私」が原初でなければならず、私が事物や世界を超越してはじめて、「すべてのもの」が私となるのではないでしょうか。私が発見したことは、このようなことなのです。

まず、「私」を知らねばなりません。それは世界の中の私や肉体の私ではなく、「最初であるもの」としての私です。この意識の転換が起こることによって、アルファでありオメガである包摂が成され、はじめて私が「あらゆるもの」となり得るのではないでしょうか。

恐怖の克服と覚醒

私は覚醒剤をついぞ使用したことはありませんが、この意識はあまりにも覚醒的であり、覚醒めるということの巨大さと強大さを、万物との一体感という愛のなかで認識させるものなのです。そのとき、私たちは初めて恐怖を克服しうると私は思います。

人々の意識のうちには、悲惨なばかりの恐怖心が巣食っています。「私」と「私以外のもの」との対立関係で生きているため、常に恐怖が内包されているのです。しかし、必ずしもそれを意識しているとは限らず、多くの場合、認識していません。恐怖から解放されたときのみ、それまでの非自己がいかに恐怖の塊であったかを知ることができるのです。

社会に蔓延する恐怖

現代社会には、さまざまな恐怖が存在し、私たちを苦しめています。不安と恐怖が日常化し、それらに慣れきってしまっているのです。しかし、生命の危機に直面すると、強烈な恐怖を感じることがあり、また過去の苦い記憶や経験が特定の場面でしばしば恐怖を引き起こします。このような恐怖に囚われると、私たちはパニックになり、己を制御することすらできなくなります。

であるならば、人類にとって恐怖はまさに「一大事」ではないでしょうか。しかし、政治家が議論する問題には本質的なものはほとんど見当たりません。彼らが扱う一時的な「措置」を否定するわけではありませんが、恐怖そのものを克服することが最も本質的ではないでしょうか。恐怖のない者が、何を予防する必要があるのでしょうか。

恐怖とは何でしょうか。それは「私」を知らないことから生じるものです。「私」と「非私」という対立意識に生きることが、恐怖心という錯覚を生み出しているだけで、それは想像力の産物でしかないのです。

分離が恐怖を生む

例えば、コンビニでの買い物を考えてみましょう。レジに立つ人も、客も、緊張や不安、恐怖を抱えています。見知らぬ者同士がすれ違うときにも、同じような感覚が生じています。この感覚が極端に強い人は対人恐怖に陥りますが、実際のところ、人間意識である以上、あらゆる人の内に、この対人恐怖が常にあるのです。

人にどう見られるかを気にしたり、人に好かれるか嫌われるかを気にしたり、悪口や陰口を怖がったり、あるいは逆に好意的な表現には安心したりと、絶え間なく人は恐怖に縛られています。これは、医者が処方する抗不安薬でいくらか解決するかもしれませんが、本物の解決ではありません。真の解決は、分離の消滅にしかないのです。

心の世界に生き、「私」と「私ならざる者」との対立関係の中で生き続けるならば、その心労は計り知れないものであり、いつ心が壊れてもおかしくはありません。それは、ひどく無防備で破滅的な生き方であり、恐怖を直視しない逃避的で後回し的な生き方ではないでしょうか。

分離の超越こそが真の解放

「私」が最初であることを知らねばなりません。この認識が第一であり、またこの認識に入ることが、全く時間を必要とせずに、その場で、分離を超越させるのです。すると、世界は愛に満ちていることを私たちは知るでしょう。

以前、スーパーで突然「愛意識」に入った人の話を紹介しました。その人は、「世界が私の反映であることを理解した」と言いました。すべての人が愛に溢れ、私に微笑んでいるように感じられたにも関わらず、実際に皆が表情で微笑んでいるわけではありませんでした。私が「愛」であったために、世界が愛に変容したのです。

この分離という壁を、原初の「私」によって溶かさなければ、どうして愛に生きることができるでしょうか。偉大な存在が「向かうところ敵のない愛」と表現したように、分離を知らぬ一なる愛の意識においてのみ、恐怖は克服され、それどころか、すべてが美しくなるのです。


質疑応答

恐怖が「想像力の産物でしかない」というのは単純化されすぎていると思います。例えば、大きな音に驚いたり、高所で足がすくんだりと、恐怖には、純粋に生物学的な側面があります。それは想像力とは関係がありません。

生理的な驚愕反応や回避行動は存在しますが、それ自体は「恐怖」ではなく、単なる身体の防御機能です。恐怖の場合は、マインド(想像力)が常に介在し、「これは危険だ」「自分に害が及ぶかもしれない」と解釈することで初めて成立します。したがって、恐怖は純粋にマインドの産物であり、生物学的な反応そのものと混同されるべきではありません。

「私」を知ることで本質を知るという考えは、私が学んできた仏教の「無我」の教えとは相反するように感じられます。

仏教の「無我」は何を意味するのでしょうか。

簡単に言えば、「固定された自己(永続的な主体)は存在しない」という考え方です。つまり、仏教は「私という視点そのものが錯覚である」とするのに対し、本論では「私こそが原初である」との展開であり、相反しています。

定義の問題ではないでしょうか。いずれも、自我は存在しないと言っているのです。それもマインドの産物であり、思考と思考者は本質的に同じものです。思考がないとき、思考者つまりあなたは存在しないのです。自我の私とは、精神の話であり、世界の中に肉体として属しているという感覚を持ちます。その私を逆転させて、それらの前に「私」が在ることを理解しようとしてみてください。真の主体・主観が現前し、その後の非実在は主観に統合されることを知るでしょう。

本論の「私が原初である」とは、個別の自我としての私ではなく、思考を超えた本質的な存在を指していると解釈するということですか?

そうです。しかし、自我意識の私を、原初としての私という考え方に置き換えることで、自我意識で感じられた多くのものは、「本質的な存在」の中に溶け、消え去ることを知るでしょう。そのとき、思考はなく、したがって分離もなく、苦痛や恐怖は超越されます。

「原初としての私という考え方」をしても何も起こりません。あなたの話は、考え方の延長であり、精神の範疇にある想像力の産物ではないでしょうか。

ここは慎重になる必要があります。なぜなら、あなたの言うことがよく理解できますし、昔の私でも何も起こらなかったと思うからです。それはあなたが言う通り、「考え方の延長」「精神の範疇」で捉えようとしていたからです。

原初の私とは、精神が静かなときに現前する私のことですが、私という原初感に焦点を当てることで、それが現前すると言うこともできます。ニサルガダッタ・マハラジなら、「私は在る」に焦点を当てよと言うかもしれませんが、その「私」や、その「在る」は、世界の中で捉えられるべきではなく、それ以前の「私」または「在る」として捉えられる必要があると言いたいのです。誤った前提の中で真理は探されるべきではなく、まず私がアルファであるという意識を知らねばなりません。それは考えるほど難しいものではないのです。それは目を開けたまま今できることであり、その真実性はラマナ・マハルシが言ったように、ハートで知ることができます。そして、それは愛なのです。この途方もないものに自我は抱かれねばならず、それによってのみ、あらゆる錯覚は癒やされます。

「私はいる」と言うことはできますが、「私は在る」の感覚は見つかりません。というのも、肉体として在ることを意味しているのではないと思うからです。

その通りです。多くの人の「私は在る」は、肉体の話です。その意識からすれば「内在」であるものを、まず最初にもってきたらどうかと言っているのです。つまり、分離して考えてはならず、「それそのものがすでに私である」という原初に至らねばならないのです。しかし、秘教的に言うならば、魂と連結するまでには、「私はいる」といった肉体意識しか分からないのです。肉体と魂の連結は、瞑想によって主に達成されることですが、やがて徐々に、肉体の私と、魂の私は逆転し始めます。肉意識や世界意識の前の、つまり、マインドの前の純粋な意識として現前するようになります。それは超越した一体であり、「孤立した統一」であり、強烈な覚醒、想像もできない意識の拡大、意識の包摂、意識の共有、つまりは一なのです。