同一化からの自由

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同一化の意味

例えば、「私の欲望」と人は表現する。私は悟りたいとか、私は進歩したいとか、どうしても存在する「自身の欲望」や「自身の考え」を表現する。純粋な意識が、情緒や想念といった低位性質と自身を結びつけて解釈すること、それが同一化である。この同一化を防ぐために、同一化しようとしている「私とは誰なのか」という事の本質を、一部の教師たちは考えるように勧めてきた。その結果、私とは誰なのか、それを頭で考えるという過ちを自我たちは犯してきた。

次のように考えてもらいたい。我々は、形態内から低位性質に働きかける者であると。欲望があるなら、私の欲望ではなく、働きかける対象がそのとき欲望であると考えてもらいたい。欲望であれ想念であれ、それは我々のものではない。それら低位性質は、我々が働きかけ、高位のリズムを賦課することで、高位に変性させることができる、人間以下の形態に囚われた生命たちである。こういうことを、日々の生活の中で、意識的かつ知的に行うことが我々の仕事である。生活費を稼ぐことだけが仕事であってはならない。それは生命の目的でも人生の目標でもない。物質に宿っている目的は、人間においては物質を霊化することである。このことを知らない場合、低位性質に逆に使われて、欲望に屈して金持ちになろうとしたり、悟ろうとしたり、何とか自分を輝かせようと、個我を構成している人間以下の生命たちに奉仕することになる。つまり、自分が何をしているのか知らずに悪に加担するのである。

外周から中心

神秘家と秘教徒の違い」という固定記事から再び以下の表を抜粋する。

扱う対象働く向き方法光線
神秘家進化する生命内なる神中心から外周熱誠と献身2,4,6
秘教徒形態外に顕現する神外周から中心法則の認識意志1,3,7

神秘家は基本的に初心者であるため、概念や観念で瞑想に挑む。したがって神や悟りや真我といった自身が納得できる想念を情緒的に扱い、それらに熱誠を抱くことができるだけである。秘教徒の場合、もはやそうした利己主義には献身しておらず、「自分」は興味の対象から外れている。すべてが「自分」であることを拡大意識で知っており、すべての形態の背後に自身である生命を見ている。形態とは「生命によって動かされる、錯覚に基づいた触知できる外的外観」として認識され、形態を生み出す源であり、あらゆる形態を支配している生命(霊)の特質(魂)が、我々の世界や我々の形態においては、進化ではなく退化に特質づけられているため、その形態内から外的形態をたえず扱い、たえず形態を神聖なものへと引き上げることで、自身を含めてすべての惑星生命を形態から解放することに携わっている。これが「外周から中心」であり、経験を積んだ魂たちが行っている仕事つまり参入している「法則」であり、我々が理解できる生命の「目的」と「意志」である。

生命の意志

高位のエネルギーつまり「高位生命」は、愛ある知的な意志に特質づけられている。低位のエネルギーつまり「低位生命」は、相対的に愛も知性も欠いた意志に特質づけられている。したがって、ともに生命であるが、「物質は顕現の最下位における生命であり、生命はその最高位における物質である」。このことが理解できれば、人々が誤って「進歩」と呼んでいるものは、より知的により急速になることが可能である。なぜなら、我々がまとっており同一化している物質に対する働きかけ、つまり霊的な破壊の仕事の輪郭がより明瞭になり、錯覚せずに仕事をすることが可能になるからである。この仕事を行っているのは我々ではなく、霊つまり高位生命である。魂の認識と魂との融合を介して我々は高位生命の流れつまり法則に入り、「神の意志」に参画するようになり、苦痛ではなく喜びに満たされた意識で、愛の仕事を意志する生命に没頭できるのである。これが真の神生である。人を構成する低位生命に何も分からず献身する人生がはやく卒業されねばならない理由がここにある。

これさえ分かれば、どうして生が喜びでないことがありうるだろうか。生が愛でないことがありうるだろうか。真我とは命であり、命は知的な目的と愛ある意志のなかで機能し、徹底して善を志向するものである。我々が瞑想を通して、内なる知覚と受容のメカニズムを発達させたとき、計画の美しさを認識することで感動するだろう。完全生を十全に知ることで至福を知るだろう。これにより我々は表情を崩すことなく涙するのである。表の情つまり情緒的な涙ではなく、また感極まるのでもなく、完成に極まることで、我々は神という全容に包まれて、涙するのである。

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