今も昔と同様に、弟子を拘束する絶対に曲げられないルールがただ一つだけある。つまり、低級性質を完全に高級性質に従わせなければならないというルールである。
H・P・ブラヴァツキー「実践的オカルティズム 」p.64
オカルティズムやエソテリックな文献を読み漁るとき、敷居が高く感じられる。とても自分には無理だと感じさせられる。相当難しい道であるように思え、絶望的な気分にさえなる。しかし私が発見してきたことは、実際はそうではないということである。この道は難しくない。むしろ最も自然な道であり、誠実さや真剣さ、善のための勇気や度胸、善であるために無私無欲を切望し、無害と奉仕を重んじる純粋なる精神といった、人格的な基礎的要素が満たされているならば、その気のある者には恩寵自体が勝手に道を切り開き、常に目に見えぬかたちで導いてくれる。この事実を人生で観察すべきである。
神の導き方は、ブラヴァツキーの表現で言えば、「成長という概念には崩壊という概念が含まれている」ゆえ、人生での辛い出来事、苦しく悲しい事件、何かを手放し諦めさせるような衝撃と激震をつねに伴うものである。辛いのはその時だけである。しばらく我慢して振り返ってみるならば、霊的にはメリットしかなかったこと、その当時の自分には是非とも必要であったということに気づくであろう。例えば、多くの弟子を初期段階にて混乱させるものとして、別離がある。それまで親しかった多くの人との別れが押し寄せてくる。それは波動的に必然である。「誕生日プレゼント」という記事で紹介した者のように、一見すると理不尽でひどい目に遭わされる場合は全く珍しくもないが、重要なポイントは、弟子が道に専心し始めたとき、別離は、むしろ弟子の決断というよりも、相手方の決断である場合が多いというものである。
カルマ的な関係が物質界で認識され、必要な行動がとられたとき、それに伴うカルマが一時的なものか、その関係が永続するものかによって、二つの可能性が提示されるということを弟子たちは覚えておくべきである。一つの可能性は、霊的な一体化が起こり、その関係が決して壊れないものになるというものである。あるいは、関係づけの時期がすべて停止することによって、全く正しい方法で処理が終わることもある。このような決断と調整の時間は極めて困難なものであるが、不思議なことに、弟子が(たとえ困惑していても)内面的に正しい態度をとるとき、弟子自身が決断を下すことは滅多にない。つまり、生活、環境、出来事、人々が状況を処理してくれて、弟子は――自らの魂にしがみつき――、問題や関係が消え去るまでじっとしているのである。
アリス・ベイリー「新時代の弟子道4」p34
都度都度で教訓を与えるために来たりては去りゆく儚き人間関係と、永続的とも呼びうるカルマ的な繋がりを持つ関係つまり真の意味での「ソウルメイト」との違いを弟子は識別しなければならない。完全には程遠い人間同士の醜いトラブルで悶々と思い詰めていても仕方がない。仲違いした者からも、一つや二つは恩を受けたであろう。その恩だけは覚えておき、感謝を忘れず、受けた仕打ちは忘れることである。そのような精神であるためには、怒りや恨みを霊的に悪として押さえつけるのではなく、「低級性質を完全に高級性質に従わせなければならないというルール」に専念することで、自身を闇から隔離し、魂の光の中で、すべてに美と完全性を見るがゆえの感謝、そして一体性を知るがゆえの至福と充足に満たされているべきである。
最初にこのブログを作ったとき、スカスカにならないよう、「箴言集」というページを適当に作っておいたのだが、最近、ブラヴァツキーの箇所が画像のみで、記事が用意されていないことに気がついた。それで、時間のあるときに本を読んでみようと努力している。だから彼女の言葉を引用する機会が増えるのだが、ときどき面白い表現に出会う。例えばモナドのことを、ブラヴァツキーは「宇宙の種子」と呼び、「ドングリの実の中に樫の木が含まれているように、全宇宙がその中に含まれている」と表現している。これをそのまま自身に当てはめるべきである。我々は最初、低位我の対極である高位我として魂を見い出すようになる。次に個人が魂と一体化した後、霊つまりモナドを理解するようになる。このモナドと接触することで、「全宇宙がその中に含まれている」という一体性の感覚に目覚める。我々は自分を人間と思い、物質界に存在するモノや人と共に、世界の中に生きていると信じているが、モナドのいわば宇宙意識に目覚めるにつれ、自身の中にすべてが存在していたということもまた理解するようになる。言い換えると、世界の中で制限を受けていた個我が、世界を飲み込み、我が内に宇宙を統一し、何にも制限を受けない原初の……に引き戻され、真の解放が何であるかを知るようになる。
戦争や地震や食糧危機、あるいは個人的な脅威に怯える弱き存在から、一体性という愛に根ざした恐怖なき強き存在へと脱皮しゆかねばならない。そのためのルールはブラヴァツキーが言う通り、簡単な一つのルールだけである。低位我を高位我に従わせるだけである。これは次のことを意味する。最初に高位我を見い出しているという前提である。見出していないものに従うことは誰もできない。高位我――我々においての魂は、瞑想で連結できるようになる。これはもう確実に断言できる事実であり、多くの弟子たちが実証してきたことである。しかし、なぜ同じ瞑想をしていて、進歩や成果のない者、あるいは遅い者がいるのだろうか。進歩の意味を知らないのである。我々は、霊の方向性を進化と呼んでおり、物質の方向性を退化とみなしている。瞑想者たちを見てほしい。この世の自分の幸福を得んがために瞑想している者だらけである。「この世の自分」が物質であり、欲している物もまた物質を満たすものであり、退化のベクトルを歩んでいることが分からないのである。これを自我瞑想と言う。はっきり言うが、この世のものに、一つであれ執着のあるものが存在するならば、それが錯覚であり取るに足らないものであり、むしろ不幸の根源であることを理解するまでは、カルマの法則の中で、物質界での経験を通して学び続けることになる。見習いの道に入る前の者を、”Aspirant”つまり熱誠家などと呼ぶことがあるが、これは、何が何でも物質ではなく霊の道を歩むのだという熱意と決意と意志力に満ちた者のことを指す。ところが平均的な瞑想家は、何が何でも自分の幸福を掴みたいと願っている。反対の道をまさぐってどうしますか。
冒頭で「別離」に関して話した。これは人間関係だけではない。依存しているものはすべて失われる覚悟をしておくべきである。人間が霊ではなく物質で心を満たさんと試みるとき、常に満たされえぬ結果に悩み苦しみ、自身の空虚は穴の空いたバケツであり、何で満たそうとしてもこぼれ落ちていくことを経験する。様々な依存症はそれが行き過ぎた場合に生じる。寂しい者は恋人を求め、あるいは酒やドラッグやセックスに溺れ、精神の子供同士ゆえにすぐに恋人とも仲間とも喧嘩して別れ、人間不信と言って次は宗教団体や占い師のような詐欺に引っかかり、本物を常に求めようとして、次は覚者を探しにインドなどに騙されに行き、大金を失っておのれの愚かさに気づくならば幸いで、次はもう自ら瞑想し、真我実現しようと決意する。おのが空虚を満たすためのこうした素材探しについて「新時代の奴隷解放宣言」という記事で以前に書いた。自ら瞑想し真我実現のために修行するとは聞こえだけはいいかもしれないが、動機について言っているのである。物質的自己の空虚を満たすための真我実現であるならば、素材の対象があれこれ変わっているだけであり、仕えているのは神でも霊でもなく、退化の弧上を辿る物質のエレメンタルであるということに気づかねばならない。このような無知が、瞑想で進歩のない者の実態である。だから再び引用しよう。
今も昔と同様に、弟子を拘束する絶対に曲げられないルールがただ一つだけある。つまり、低級性質を完全に高級性質に従わせなければならないというルールである。
低級性質が満たされるのは、高級性質によってのみである。我々が真に満たされうるのは、物質ではなく霊によってである。これを霊的と言うのであり、いわゆる「スピリチュアル」などといった商業的な、つまり実際は個人の幸福など物質的な方向性を目指す先には何の真理もないのである。動機を識別してもらいたい。霊と物質を識別してもらいたい。決して自己批判や落胆などの誘惑に耽溺することなしに、ただおのれの事実を見てもらいたい。何のために瞑想しているのか。答えは、瞑想以外が瞑想ではないからである。真理以外はすべて苦痛だからである。本物以外はすべて偽物だからである。これは果たして動機なのだろうか。動機ではなく、成熟した魂の理解である。さんざん打ちのめされてきた者だけが知るこの世に対する理解である。このような文章の意味を真に理解してもらいたい。そこだけは厳格であってもらいたい。もし厳格になれないというのなら、それは思考の怠慢であるか、経験不足である。これは悪いことではない。これに気づくことが重要なのである。
