自我意識では、肉体などの媒体を自分と思っているため、その外的な個人がどのような人物であるか、どのようなレベルであるかによって、自分とは「このようなものだ」という制限を、無意識のうちに自身にかけている。この自分像に応じて、自分に可能なこと、不可能なことが予測され、霊的なことは自分像からすれば不可能なことに基本的には分類されるものである。自身でかけるブレーキである。このような乗り物・媒体は、進まない。はたして、自分像が真我なのだろうか。像すなわち想念が真我なのだろうか。もっと誠実に思考し、考えれば分かることを考えない癖を正し、自我に翻弄されている状況を止めなければならない。
この世では、そろそろ秋といったところだろうか。季節の変わり目で風邪をひきましたと人々は言う。季節の変わり目が風邪の直接的原因なのだろうか。誰も何も思考してはいない。体調が悪くなりました、原因は風邪ですと言い、季節の変わり目であるにも関わらず、クーラーをかけすぎていて、それでおそらく風邪をひいたのでしょうね、で終わりである。さらに悪い場合は、病院に言って薬をもらうというパターンであり、医者もまた適当なことを言い、患者もまた適当に納得するというものである。大丈夫ですかと言いたい。
クーラーのかけすぎで風邪になるのかと聞いたことがある。すると、それは寒くなるから風邪をひいても仕方ないでしょうと言われた。寝ていて寒かったのには気づいたから、冷房を消して、ちょっと厚めの毛布にくるまって寝ていたが、やっぱり駄目だったようで風邪をひきましたと言うのである。ここで重要なのは、寒気に気づいたが、睡眠を優先したというところである。寒気が悪寒に近い場合、それは病いという現象が起きる前の警告だと解釈すべきである。ならば、寒気というその種の「気」に真正面から向かう必要がありはしないか。それが何なのか確かめる必要があるのではないか。我々は、寒いなら風邪をひくのだろうか。寒気が何かを確かめず、その不調和を放置し続けた結果、肉体的には風邪ということになる。しかし、悪寒に気づき、それ自体を見て、不調和を調和にその時点で再調整してさえいれば――先ほどの例で言えば放置して睡眠を優先するようなことをせず、即座に起きて、瞑想へと向かい、つまり融合へと向かい、不調和を調和に保つ集中に入るならば、風邪という現象は起きずに済むのではないのか。
病気は、気の病いであって、エネルギーとフォースの不一致の放置の結果である。この不一致が大きければ大きいほど、時間的には短く病気になるし、どれくらい重度になるかも決定される。逆に健康なときは、健康な意識を可能にさせるエネルギーの方が勝っているため、少々の不一致では、何年とか何十年とか放置しないかぎり、大きな病気として具現することはない。つまり正しい方のエネルギーが敗北することはない。邪まな風である間違った方のエネルギーつまりフォースが優勢になるとき、媒体は何らかの病いに冒されるのである。これらは、書物に書いてある内容ではなく、瞑想で自ら見出すことができる話である。私には分からないはずだとブレーキをかけてはならない。理解しようという「気」があるならば、必ず理解できる。「気」の持ちようである。
世の中では、私=肉体という意識がほとんどであるため、肉体の健康が人生の目標になっている無知な人も多い。よって、健康法というものはごまんと存在している。しかし、追求が甘いため、健康法の真髄に至っている健康法は存在しないに等しい。まず、我々は肉体ではないという意識を知らねばならない。言い換えれば、まず魂を知るべきである。用語で毛嫌いしないでもらいたい。魂がそれまでの学習に合わないなら、個人的に好きな単語に言い換えればいい。つまり逃げないで聞いてほしいのである。ブレーキをかけないで、心を開いて聞いてほしいのである。真の自己を見出すならば、それ自体が本流であり、エネルギーであり、我々が自分と今思っている媒体は本流から離れてしまったフォースの集合体である。本流に戻すこと、調整し直すこと、偽我と真我を一致させること、フォースをエネルギーによって調整し助けてやること、つまり一体化することが、健康法の基本にして真髄である。言い換えれば、絶対に病気にならない本物と一致することが健康の秘訣である。
こういうことが分からない場合、外的で一時的な健康法、根本解決にはならないものに頼ることになる。しかしどの健康法も、本質はエネルギーとフォースの再調整に関わるものである。例えば、野菜や果物をたくさんジューサーにかけて飲むような健康療法があるが、あれは良いに決まっているではないか。本流に近いエネルギーつまりサットヴァをふんだんに、またかなり頻繁に流入させることで、悪い方のエネルギーを打ち負かしてしまおうという、外的な手法である。これはお金がかかるし、手間暇かかるし、例えば自分が憔悴しているならば誰かの助けを借りるしかないし、しかも一日中、主にビタミンCが豊富な手製のジュースを飲み続けるという作業を、数年間続けることになる。金銭的に裕福でないとまず無理である。たとえ裕福でこのような療法が可能であっても、この期間、悪い方のエネルギーの勢いを助長しないような心のあり方を維持する方法を通常は知らないゆえ、治る場合もあるし、治らない場合もある。その健康法は良いものだが、それだけで治るわけではなく、それを続けている間に自身で作り上げた悪いエネルギーの集合体に養分を与える癖――例えばネガティブな考え方であったり、誰かや何かを恨んだり憎んだりといった破壊的な波動で生きたりと、不健康法を続けるならば、いくら体内や体外に良いエネルギーを流し込んでも、優勢と劣勢を逆転させることは難しいのである。
だから、本質的で根本的な健康法である、真我実現だけを知っていればいい。すると、肉体の健康には興味はなくなるが、肉体は自動的に健康になるだろう。無病の源と一体化しているのだから、媒体も必然的に無病である。ただし、進化段階に由来するカルマ的な制限を持つ病はここでは除外して話している。
肉体は一つの原理とは見なされず、流入するフォースと内的人間の自動装置にすぎない。肉体を支配するエネルギーは、意識の焦点が置かれている様相や諸様相の統合されたものから発せられる。したがって、意識の焦点が絶えず魂にあるときに、完全な健康がもたらされることになる。これは、現在のあなた方の誰の場合にも可能なことではない。というのは、あなた方はまだそのような進化段階にはなく、個人的なカルマに加えて、さらに集団での関係と集団でのカルマが課せられているからである。
アリス・ベイリー「新時代の弟子道5」p.429
シャンバラに集中しているエネルギーである意志と力の第一光線とカルマの法則は密接に関係している。惑星でのその効果と進歩した人類に関しては特にそうである。したがって、個々の熱誠家が第三イニシエーションに近づけば近づくほど、その個人のカルマの解消もより速まり、直接的になることは明らかである。モナドとの関係が確立されるようになったとき、その結果として基本的なエネルギーの破壊的な様相が解き放たれ、すべての障害がすぐさま破壊される。
光線とイニシエーション上 p.117
一つ目の引用は、秘教徒が第三イニシエーションと呼んでいるものからかけ離れている弟子に対するものであり、2つ目の引用は、第三イニシエーションに近づこうとしている弟子に対するものである。第三イニシエーションとは何なのか。簡単に言えば、魂と個人の完全な融合の達成だが、その状態に近づくことが、なぜ個人のカルマの解消を速めることになるのだろうか。
瞑想の過程は、正しく理解され実行されたとき、霊的人間の意識を三界のすべての形態から撤退させ、すべての感覚知覚から抽出する。このようにして純粋な瞑想の瞬間に、結果を生み出すカルマの様相から自由になる。一時的に彼は抽出され、完全に集中し三界とは何の関係も持たなくなった彼の思考は、外に向かう波動を全く発せず、どのような形態にも関与せず、どのような質料にも影響を与えなくなる。この集中した瞑想が習慣になり、生活において平常の日常的な態度になったとき、人はカルマの法則から解放される。
魂の光 p.382
私がよく、「関係ない」とか「無関係」という言葉を使う傾向にあるのは、読んでいる人は知っているだろう。それは、三界のなにものとも「関係ない」という感覚に注目させ、その感覚を発達させたいからである。この引用が言うところの「純粋な瞑想の瞬間」つまり魂へ一点集中された意識は、瞑想が上達するにつれ、誰でも可能になるどころか、より易しいものになる。これは、「生活において」と書いてあるとおり、いわゆる人生を生きながら、その一致意識の維持を可能にさせるものである。なぜなら、一致していないときは常に苦痛を感じるようになるからである。したがって、不一致とか不調和に端を発する苦痛は、すべての形態意識に内在してはいるが、知覚しているかしていないかの問題である。お笑い番組を見て笑い転げている人も、あるいは恋愛が成就して喜んでいる大人や子供たちも、その感覚の背後に苦痛があるのである。真我以外は苦痛である。なぜなら一致していないのだから。これがあらゆる病いの原因である。そして一致することが、真の健康法であり、そのとき、我そのものがこの世で最高の名医である。