何を言われようが、何を質問されようが、興味があるとするなら一つだけである。なにが問題なのか。
欠落しているものが補われれば事足りるのだろうか。貧乏人が富み、病人が症状から解放され、絶望が希望に変わるとき、われわれは問題がなくなったと言う。それは両極端を往復する繰り返しである。われわれの生は、快楽と苦痛、幸福と不幸、欲望と恐怖を行ったり来たりするが、その終わりはない。むしろ交互の来訪が約束なのだが、好ましい一方だけを求める戦いが繰り広げられている。稀に、この幼稚な精神に弄ばれること、これには飽きたと言う人がいる。経験への無関心。経験へ向かわせる欲求との無関係。何も知らないし、何とも関わりがないと言わせる満ち足りた白痴感。このような「光りはじめた」精神は、何かを欲したり、何かを拒絶したりすることで、その反対極を作り出さない。何かを良いと見なすことで、別のものを悪いと見なすような罠にかからない。つまるところ、無反応。
問題の解決は新たな問題を作り出す。問題は必ずしも解決される必要がない。解決された問題は別の続編を創作するだろう。われわれは、問題と無関係である。問題もしくはその解決に無関心になることで、問題の発生源つまり問題の所有者はおのれを維持できなくなることを知る必要がある。逆に言えば、問題が解決されることで自我は強くなる。問題に目を向けてもらえないと、自我は困る。だから、自我は絶えずあらゆる方角から問題を惹起し、われわれを誘惑する。「ああそれは問題だ」とわれわれが言うことを喜ぶ。こうして、低位の波動へ引きずり込もうとする。
有能な白痴は、いかなる問題に対する自身の反応に対しても無反応を貫き、養分を供給しなくなる。彼はただ在る。あれは良くてこれは嫌だと主張する自我に対し、賢明にも距離を置いている。骨を折って求めることなく、何もないことに骨を休める。だから問題を主張する人を観察すべきである。それは個人的な問題である。個人が所有する問題である。その個人に尽くして問題を解決することで主を強めるのか、取り立てのように問題の解決を要求してくる乱暴な自我と離縁することで問題が起きうる世界を後にするのか、絶えず油断なくおのれを見守るべきである。何が自分を強くし、自分は何のために生きているがゆえ自分なのか。無意味なものごとを知り、それと関わらないことである。
分離した自我については何も気にしないことにどんな効能があるかにあなたが気づきますように。
アリス・ベイリー「新時代の弟子道5 」p.150