喜びについて

ジュワル・クールが或る弟子に対して、喜びについて回顧するよう勧め、三十の意味深き文章を与えた。これを紹介することが有益であると感じるため、ピックアップして列挙し、それぞれに解説を加えたい。というのも、我々が歩む霊的な道は、最初は苦痛に満ちているが、その夜明けには常に喜びに迎え入れられるからである。それは、我々が困難な道を歩みながらも、同時に喜びに溢れ、愛や喜びによって困難が征服されているという意識を達成しなければならないことを意味している。

2. 私はどのような喜びを感知しても、それに対して情緒的に無執着でいられるか。

3. 私は情緒的な個我のどのような反応にも左右されずに、メンタル的に自分自身を見ることができるか。私はパーソナリティーとしてこれができるであろうか。

アリス・ベイリー「新時代の弟子道4」p.327

情緒的に無執着な状態のときのみ――言い換えると、魂が情緒体(アストラル体)を統御している状態でのみ、霊的な喜びは発見される。この喜びは、尽きることのない無限のものであり、個我の幸不幸や気分によって妨害されることは決してない。よって個我がたとえ不幸な環境に置かれていても、その喜びが途絶えることはない。弟子は情緒を犠牲にして生きてきた結果、永遠の喜びに守られることになる。このことを理解して、個人の情緒を犠牲にする生き方の先に喜びを見出してもらいたい。

5. 正直に言って、私は自分が喜んで奉仕していると言うことができるか。

6. 私が最も望んでいるのは、喜んで奉仕することか、それとも知的に奉仕することか。私はその理由を知っているか。

奉仕するのは個我ではない。個我が魂に統御され、パーソナリティーが魂にオーバーシャドーされた状態にある時のみ、喜びを知ることができ、そしてこの喜びは神の意志すなわち奉仕に生きることによってのみ養われ顕現し続けることが可能な特質である。個我は「奉仕をしなければならない」と言う。それは知的なものである。魂は神の意志の遂行媒体であるゆえ、個を滅した魂の顕現は、それ自体が絶え間なく喜びの奉仕に向かっている。なぜなら、すべては一つだからである。この世では多神で、各々に宿る神が別の姿をした神に働きかけるであろうが、すべての存在の源は一つだからである。魂はこれを知っており、ゆえに恐れることなく喜びに満ちている。喜びをかき消しうるいかなるものにも妨害されずに、本来である喜びが顕現され続けている。

10. 盲人は手探りで掴まって前進しなければならないが、目が見える人は、何も頼りにせずに自由に、見ることで歩むことができるというのが真実ならば、なぜ私は(目が見えるものに)目を閉じ、掴まり、道を見ずに道を感じているのか。見ることのできる人々は喜びに満ち、メッセンジャーや助力者になることができる。手探りをする人々はただ導かれねばならない。この二つの集団のうち、私はどちらの一員なのか。

11. 私のマインドは霊的人間にとってのヴィジョンの器官になっているか。私はこの器官を、高位我が活用するために提供しているか。

12. 私は、マインドを魂の光の中にしっかりと保つことができるか。

秘教徒は、第三イニシエーションを受けるまでは、マインドを単なるイルミネーションの器官としてしか見ていない。我々が魂として、マインドを魂の輝ける光の中にしっかりと固定させ続ける能力を発達させたとき、個我が分からないことをその器官――魂に統御されたマインドを通して見て、知ることが可能になる。

例えば、私が十代でこのような文章を書き始めたとき、分からないことがたくさんあった。ゆえに分かることだけを書いていたつもりであったが、時には書いている途中、時には思いもよらぬ質問を受けた際、そのことについて私(個我)がまだ分かっていないことにぶつかることがあったのだが、目を閉じてマインドを静かにして眉間の中心から集中するならば、次の瞬間に知識は得られ、分からないこともなぜか分かることを理解した。これは利他的な事柄に関しては延々と応用ができた。こうして自然に次のことを知り、次の習慣が身についた。瞑想で得た知識を知的に個我が書いたり話したりするのではなく、瞑想状態のまま魂がマインドや脳という媒体を通して書き話すことが可能であるという知識とその習慣である。このときのみ我々はメッセンジャーや助力者なのであって、個我意識が書いたり話したりするものは決して本物の響きを帯びることはないし、喜びに支えられたものでもない。そのようなわけで、私は多くの学ぶ兄弟方に、私のように書いたり話したりすること、得られた知識を分かち合うために流入するエネルギーを使用することを、機会がある場合は勧めてきたのである。今でもそのように思っており、ゆえに読者の方々には、魂として語るという表現を可能であれば始めてもらいたいのである。これについて相談がある場合は質問してください。

14. 私は喜びという言葉をどのように定義するか。

15. 私は喜びによって統治されてきたか。そして、私の一日は喜びが優位を占めてきたか。

16. 喜びは自己実現から生まれる特質である。私は断片的な個我を忘れることができるか。私はすべての自我の中にある唯一なる真我を認識することができるか。

ここでの真我とは、個我における真我である魂のことである。魂と接触できるようになったあと、もしくは魂のエネルギーが一日中流入するようになり、その波動と一致するというアイディアを存在の状態として理解するようになったとき、弟子の目標は魂として実際に生きることである。瞑想時は魂でも、目を開けると肉体意識という二重性に弟子は長いあいだ苦しむ。ならばこう聞きたい。なぜ目を開けると魂意識から肉体意識に落ちるのですか。このことを私は文章で書くべきとは思わない。これは誰もが自身で見出すことができるものであり、文章から得た知識ではなく、体験で理解しなければならないものだからである。ヒントを言うならば眉間が関係している。魂はどこに座しているのですか。我々はどこから魂と繋がることができるのですか。その通路を切断しないことである。これを理解することで、我々の一日は情緒でも気分でもなく、魂の喜びが優位を占めるようになる。

20. 喜びという目標が常に私の前にあるか。

21. 人々が道の喜びと至福を必要とするときに、私はそれを引き寄せることができるか。

たとえ魂と接触していても、あるいは瞑想中に稀に喜びや至福に包まれることがあっても、そのような喜びを随意に引き寄せる方法は分からないという弟子は多い。なぜだか分かりますか。これに関係する記事を最近いくつか書いたと思う。それは意識が外向きではないからである。多くの聖者が内に向かうように教えることを我々は知っているが、内に向かって一体化されたものはどこへ向かうのであろうか。睡眠で得られたエネルギーが目覚めの状態で使用されるように、内で得られたエネルギーは、常に外に向けられねばならないということを、初心者は常に知らないものである。この考え方は思いも寄らないのである。ここは重要なところである。魂は神の意志の媒体であり、それはこの世においては常にすべての兄弟姉妹を霊的に引き上げるために外へと向けられている。この意志の表現のことを、我々は誤って「奉仕」と呼ぶのである。それはこの世の人々が言うところの「奉仕」ではなく、愛そのもの、喜びそのものの、途方もない爆発的な自己表現でしかない。

したがって、魂として兄弟姉妹へ向けて意志が外向きであるとき、自在に我々は喜びと至福を引き寄せることができるのである。これは多くの弟子にとっての盲点だが、驚くべきパラドクスであることを必ず見出すだろう。そのとき彼らは言う。奉仕こそが我が人生であると。そして魂である弟子は、この世では奉仕すなわち神の意志と目的と計画に従事すること以外に用はないことを歓喜のうちに知るのである。

22. 私は低位性質の救済者である。どのようにして喜びは救済するのか。

23. 救済する喜ばしいフォースは私を通して流れているか。

24. 私の性質は本当は喜びもしくは至福である。この喜びはどのような形で顕現するのか。それは少しでも顕現しているか。

25. 私が自分の喜びを最も容易に表現できるのはどの体か。

どのようにして喜びが自我という低位性質を救済し、天へと引き上げうるのだろうか。それが分かるのは25番目の質問に完全に答えられるときのみである。普通の人間の喜びは、最初に肉体の喜びである。食べる喜びや、肉体的に楽する喜びや、いわゆる性の悦びなどである。よって、肉体エレメンタルを満たすことが通常の人間の幸福にして目標である。次に、情緒や感情としての喜びは、肉体的な喜びと連結している場合は多く、メンタル体の喜びもまた情緒体の喜びに結びついていることがほとんどである。例えば、個人的な趣味や目標というものが、どれか一つの体だけの喜びであることは稀である。読書が趣味ならば、知的な理解による喜びがあり、したがって喚起されたそのような情緒的(というよりもカーマ・マナス的)な喜びがある。恋愛が目標であれば、その達成が幸福すなわち情緒的な喜びであり、それはしばしば肉体的な性の悦びまで達成させたいと願わせる。このように、どれか一つの体の喜びではないものの、確かなのは、コーザル体つまり魂体の喜びではないということである。よって、個人的な喜びを犠牲にし、それを生涯において実証したとき、魂を通して神の喜びや至福というものが得られるのである。この犠牲は、無知な修行者にとってはしばしば抑制と解釈され、それはあらゆる宗教の熱心な学徒によっていまなお行われている禁欲的な生き方を自らに強要するという苦悶の生涯へと導く。個人的な喜びの犠牲とは、瞑想や奉仕を通し、最初に高位我を知ることによって、そして高位我の特質と一致することによって遂行される、知恵に支えられた喜びの表現でしかない。これについてジュワル・クールは別のところで次のように言っている。

人間の意志を神の意志に服従させることの必要性に関して多くの教えが協会によって与えられている。しかし、すべての形態に内在し、特に人類という形態において活発であり、そのため喜びと理解をもって行使できるキリストの意志の喜びに満ちた行使については、ほとんど全く教えられていない。犠牲とは幸福を意味し、欲求を「神聖に」する喜びに満ちた過程を意味するというアイディアを欠いている。アストラル界に閉じ込められたエネルギーを別の界層での「啓発された」奉仕に解き放つということは理解されていない。

新時代の弟子道6 p.196

まだ幼い兄弟姉妹は、あらゆる意味で下半身でエネルギーを浪費する。太陽叢以下のセンターつまりチャクラで貴重なエネルギーを漏出する。瞑想や奉仕が純粋であるとき、それらは控えられるようになり、下のエネルギーは各々対応する上のセンターへと自動的に送られるようになり、これによって神性を顕現するための器官と土台が形成され、引き上げられたエネルギーは、よって神の奉仕として、外へ向かって知的に解放し使用することが可能になるのである。このようにして低位性質は高位我すなわち魂によって救済され、肉体・情緒体・メンタル体という器は、神の意志を遂行するための純粋な媒体でしかなくなる。これを我々は栄光と呼ぶ。

28. 本当のところ、私が喜びに満ち溢れるのを妨げているのは何か。

30まであるが十分に長いためこれを最後にしたい。何が我々において神の喜びを妨げているのだろうか。簡単な答えである。自己中心。それは自我において自然な状態であるが、そこから脱する必要があるからこのような文章を読んでいるに違いない。瞑想と奉仕が自己中心から神中心へと導く。それは、一箇の悩める探求者でしかなかった私がみずから実践し実証してきたから確信を持って言うことのできる完璧なテクニックである。正しい瞑想、そして瞑想に支えられた正しい生活を決意し生きることで、波動は徐々に高められ、魂のフォースが流入するようになる。この力が低位性質を統御するのであり、個人の意志は自我にとっての神の意志である魂の意志に置き換えられることによって、初めて神の喜び、神の愛、神の至福が我がものとなりゆく。この喜び、この愛、この至福は、内で還流するためのものでは決してない。自分のためだけの喜びでは決してない。もしそのように独占するならば、腐敗したエネルギーが徐々に周囲を蝕み病気となって、我々は自己破壊してしまうだろう。これを知らぬがゆえに苦しんでいる弟子の、なんと多いことか。瞑想で得た高位のエネルギーが何を意志していると考えるであろうか。兄弟姉妹への奉仕にしか向かっていないのである。それは外に向かって流し、放射し、すべてを抱きしめるためのものである。よって、本来は個人瞑想というものはないのである。瞑想で得たものがすべての兄弟姉妹、あるいは森羅万象の生命たちと分かち合われて初めて、瞑想はセットで完成なのである。これを理解したとき、弟子は、もはや最初から魂として外へ外へと向かうようになり、愛と喜びと至福の伝道師にして伝導媒体となり、神の奉仕にしか興味がなくなる。これが融合である。全一体である。一体でなくして、どうして至福でありえようか。どこに喜びを感じうるだろうか。なにゆえに愛でありうるだろうか。

この世という、実際には存在していない、ほとんどVRのような虚構に惑わされて、人生の真の目的を見失ってほしくない。VRと違って、この世では感覚知覚があり、幸福感とか快感とか、副作用しかない偽の誘惑のなんと多いことか。これらを経験し尽くし、疲れ果てた古き魂たちは、果てしのない輪廻の鎖につながれてきて、もうこりごりなはずである。自我にはもう耐えられないはずである。真我以外はすべて苦痛である。しかし真我は常に至福であり愛と喜びに溢れ続けている。終わらぬ賛美歌である。あまりにも美しい。完全にこの世が楽園に生まれ変わることを実証し、皆に伝えようではないか。夜が明け、闇に光差し込み、苦悩の呻きは止み、太陽天使が顕現し、地上に天国が復興され、我々は歓喜に包まれる。人類は一つの生命体になる。

このような喜びが悲惨な苦悩の最中にある兄弟たちに訪れますように。神がすべての人に現れますように。このような祈りとともに我々は今日も瞑想に明け暮れるものである。

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