喧嘩中

瞑想者とは、瞑想に救われる者である。瞑想を通して、低位我は高位我に救われ、意識は自身である高位我へ焦点化されるようになり、低位我との関係はそこで打ち切られる。瞑想を始めた時の者はいなくなり、引き上げられる。皆、何かしらの理由で瞑想を始めるが、それは通常、自分や人生への不満や絶望や苦痛といった、救われねばならない状態からのものだったと思うのである。この瞑想を始める者は、やがて瞑想に救われ、どのような苦悩も無くなり、すべてが美と喜びに変わったことを知るだろう。どのような人間も、必ずいつかは高位我にひれ伏すことになる。なぜなら、それ以上に素晴らしいものはないからである。完全な人間はいなくても、高位我は、魂は――霊は――完全である。その完全性を探求するとき、そこにあるのは非常に純粋な愛である。この愛の目的は、簡単に言えば奉仕活動であることを我々は発見する。

奉仕したいという願望だけが、新しい生活手法への必要な方向転換と服従を引き起こすのにふさわしいものである。もう一つは、自分の中にあり周囲にある光に、どのような犠牲を払っても従おうという気持ちである。奉仕と服従は偉大な解放方法であり、拒否の法則を作動させる根本的な原因であり、このようにして、待ち望んできた解放を熱誠家が達成するのを助ける。奉仕は彼を自分自身の思考生活や自己決定から解放する。魂への服従は熱誠家をより大きな全体へと組み入れる。そこでは自分自身の欲求や衝動は人類や神そのものといったより広い生命のために否定される。神は偉大なる奉仕者であり、人類のために自らのハートの愛を通して自らの聖なる生命を表現している。

アリス・ベイリー「秘教心理学・第二巻上」 p.197

人間の奉仕活動は、結局のところは低位我のための利己的な活動であり、自我を拡大するための欺瞞である。その自己を犠牲として捧げ、内なる神へと完全におのれを従属させねばならない、という意志と知恵が芽生え、これが内的な奉仕活動を通して神との合一へと人の意識を導くようになる。瞑想者はこうして奉仕者になる。救われた者は、救う必要性の方が重要であることに気づく。なぜなら愛は意志だからである。このようなエネルギーは何らかの目的へと突き進んでいることを見出すだろう。このとき、個人の目的は神の目的に置き換えられる。神の力が低位我の意識を救い上げたように、その神の力と融合したとき、人間は愛の奉仕者へと変貌する。

外の世界は、いま変貌を遂げる前の段階に直面しており、それゆえ混迷している。多くの国家が混乱状態にある。善と呼ばれるエネルギーが解放される前に、必ず悪と呼ばれるフォースが解放される。キリストとアンチキリストの概念のようなものである。ちょうど悪人が善人に生まれ変わることがあるように、この種のフォースを神のエネルギーに変性させ救済する仕事が求められている。瞑想者が奉仕者になるとき、彼は瞑想を通して偉大な奉仕者の集団の一員に加わるだろう。しかし今のところ、低位我に自縛されている瞑想者の方が多く、したがって物質界とアストラル界にて必然的に神は劣勢である。これは人類の先駆者である瞑想者に非常に責任がある。未発達な意識を表現している人たちには何も求められないが、神性の意識へ融合しようとする者たちが、低位我の問題を扱っている。この段階を独力で突破しないかぎり、実力が備わらない。自身という実質的に悪のフォースを統御させるべく、純粋なエネルギーの伝導媒体にならなければ、何の力も揮うことはできない。おのれに神を入れぬかぎり、神の仕事は為されない。

内と外は同じものであるが、それは原因と結果が同じものである、と言う程度の同等である。したがって外の世界での活動より、内での奉仕活動がより本質的であるのは自明である。結果ではなく、原因に働きかける素因に加わらねばならない。この条件は、個人的な問題からの自由である。ならば個人とは何なのか。それは神と呼ばれるエネルギーに対抗するフォースの集合体である。ある聖者は、この世について問われたとき、「神とその反対が喧嘩を始めた結果」と答えている。どの人間の内部でも、この喧嘩は続いている。だから、別の聖人が一時期世の中に姿を現したとき、彼は好奇の眼差しのなか飲まず食わずで瞑想を続けていたが、彼が話しだしたとき、誰かが何のために瞑想していたのかと聞いた。すると、彼は平和のためだと答えた。

霊と物質の中間に魂は位置し、魂の意識に個人が入るとき、初めて平和と調和を知る。この幸福な意識に留まる者は多いが、先に進まないといけない。助けられた者は、助けたいと思うようにならねばならない。自らを助けた力の一部を使用することが徐々に許可されたならば、そのエネルギーをいかに神の目的に沿って使用したかが問われる。神のエネルギーは意志である。そして、この意志だけが重要であることに気づくだろう。それは喧嘩という錯覚を平和に置き換える力であり、この意志は絶えず質料を扱っている。喧嘩相手へ奉仕しようとしている。瞑想は、この奉仕の意味や意義を段階的に教えるものであり、決してサマーディーを目的とするものではない。言い換えると、神の目的はサマーディーではない。それは個人が求めるものである。神は奉仕に没頭している。我々の意識に神性が入り込むとき、我々もまた奉仕に没頭するようになるだろう。もしそうでないならば、何らかの個人事が我々を妨げている。その妨害するものに気づき、その力よりも強くならねばならない。妨害するものと向き合うときだけ、力が与えられるようになっている。個人の問題から、直接的に神の意識へ入ることができるようになっている。目の前、この現在点は見られるのを待っている。あらゆる答えがいま目の前にある。これは驚くべきことであるが、誰が信じてくれるであろうか。

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