日本という場の内側に沈む問題を語ることは、多くの人が抱いてきた自国への誇りを揺さぶる行為である。しかし、それは攻撃ではない。むしろ、愛の痛みから出る言葉でなければならない。長い年月のあいだ、私たちは「秩序正しく勤勉な国」「礼節を重んじる民族」として自らを語ってきた。だが、その自己像の多くは、敗戦と占領を経て形づくられた模造の鏡にすぎない。誇りとは、過去を飾るものではなく、真実を直視する力である。その力が今の日本では弱まっている。かつて美徳とされた忍耐や協調、勤勉は、思考を止める理由に変わりつつある。不正を見ても黙し、理不尽に異を唱える者を笑う。その笑いこそ、誇りが形骸化した証である。恥を避ける社会に成長はない。恥を引き受けるところにこそ、誇りの再生がある。日本を批判することは、日本を見捨てることではない。それはまだ希望を信じている証だ。沈黙を破る者、腐敗を指摘する者、孤立しても真実を語る者——彼らこそが社会の免疫であり、意識の灯である。壊れていくのは日本人の誇りではない。誇りの名を借りた欺瞞である。その崩壊の中に、再生の芽が生まれる。国家とは制度や象徴ではなく、自らの責任で考え、行動する人々の総体だ。したがって日本の再生とは、政治でも経済でもなく、誠実さと思考の回復にほかならない。他者の評価に寄りかかってきた私たちは、これから痛みに耐えてもなお真実を選ぶ勇気によって誇りを築かなければならない。誇りとは守るものではなく、壊され、問い直され、鍛えられ続けるものである。その試練を通してしか、沈黙を超えた自由は得られない。日本はまだ終わっていない。ただ、生きているふりを続ける限り、再生は訪れない。この国が再び息づくときとは、私たち一人ひとりが内なる怠惰と恐れに向き合う瞬間である。誇りを壊すことは、愛の最も厳しい形であり、その痛みを受け入れる者だけが、この国を本当に愛することができる。
或る見習いの弟子の文章
この文章には一定の説得力があるが、簡単に言い換えると、「自身を誠実に見つめる者による自己犠牲的な自己努力によってのみ日本と個々の人間は再生しうる」という信念的で自己訓戒的なものである。そこには著者の痛みが感じられる。受けてきた侮辱、理不尽な扱い、誰にも理解されない孤独が感じられる。そのような孤独の中でも必死に真実に生きようというある種の涙ぐましいもがきが感じられる。
この文章は良いもの、良い意図のもとに書かれているものであるが、厳しく事実を言えば、特定の個人の意見でしかない。この見習いの時期の苦悩はよく理解できるが、我々の誰も、何もコントロールする力を持っていないし、コントロールする主体というものが実際には存在していないことに気づかぬかぎり、真の愛を知ることもなければ、真の再生を得ることもない。見習いの弟子の欠点は、I AM Xであることを信じているところに尽きる。この弟子の文章を他にも読んだが、虐げられてきた過去と記憶が重すぎて、しばしば感情的で批判的になるところがある。それは、彼が堕落する可能性を示唆している。というのも、心には限界があるからである。
似たような孤独な環境にある読者、誰からも勘違いされ笑われながら、その厳しい環境の中で必死に善に生きようともがいているが、そろそろ限界かもしれないと感じている読者もいるだろう。私は解決法を知っているから書いている。そのような環境も経験済みである。そのうえで言うが、我々は特定の個人――Xではない。日本人とか、日本の危機とか、日本人としての責任とか、それらはXの話である。次の生涯では中国人として、日本国を敵視するXとしての生涯で学ばないといけないかもしれない。無数のXを繰り返しても意味がないと感じられる生涯がやがて訪れるだろう。そのとき、今生のXつまりあなたに対して関心を失うはずである。この文章を読んでいる個人に対して無関心になるはずである。彼か彼女か分からないが、あなたの意見や目的や責任など、Xに属する何ものにも興味を持たないはずである。ここをクリアしていないかぎり、霊的に突破することは不可能である。
真の我々は、一つも重荷を背負っていない。つまりすでに解放されている。個人感覚を喪失している弟子と、まだ特定のXに生きている弟子とでは、あまりに意識の開きが大きすぎる。ここだけが問題である。世の中や国家のためにXが尽力することは起きるかもしれないが、それはどこまでいってもXの話である。Xと自己同一化するならば、我々は永遠に自由になれないだろう。すでに解放されていることが分からないだろう。これが根本的な世界の不調和の原因である。これは各々の経験不足と瞑想不足が原因である。Xに関しては、すべて諦められている必要がある。それはXとして諦めようという努力から始まるかもしれないが、そうではない。まず主体が知られねばならない。主体はXではない。Xとして何かをしようとすることが最初の間違いである。Xは、諸体と同一化したときだけ存在するように感じられる個我意識である。瞑想は、その諸体を魂に従属させる科学である。つまり、瞑想では、我々は全く何もしてはならないのである。
愛を考えたり、教化したり、実践したりすることはできません。愛や同胞愛の実践は、依然として精神の領域内のことであり、それゆえ愛ではないのです。こういうことが全て止まったときに愛が現れるのです。そのとき愛は量ではなく質の問題なのです。あなたが一人の人間を愛することを知ったとき、あなたはすべてのものを愛する方法が分かるのです。あなたが愛しているときには一も多もないのです。ただ愛があるだけです。私たちの抱えている問題が解決されるのは、愛があるときにかぎるのです。そのとき私たちは愛の喜びを知ることができるでしょう。
クリシュナムルティ「自我の終焉」 p.343