在るの影はする2

「在る」ではなく、「する」へと駆り立てる人間の力とは何か。この人間の衝動を、「在る」という存在の深淵で制し、鎮めようとする魂の奉仕、個我がこの不眠不休の奉仕に頭を垂れ、一致しようとし始める回帰運動、これが瞑想である。この神聖な営みは、あらゆる「する」への執着を超克し、ただ「在る」という境地へ誘う。「在る」そのものの状態において、我々は地上の分離した個人意識を離れ、言葉ではあらわしえぬ根源へと回帰する。それは、単なる快楽や一過性の幸福感などという卑俗な気分や感覚をはるかに凌駕するものである。

そこでは人知を超える平和を知り、それを経験する。なぜなら、意識はそのとき魂に集中しているからである。魂とは平和そのものであり、ブッディ生命の範囲にある。そこでは、本当の落ち着きを知り、かつ感じることができ、平衡が行き渡っている。なぜなら、生命の中心が、本質的にバランスであるエゴの中にあるからである。そこでは、穏やかさが支配しており、波だったり揺れ動いたりすることはない。なぜなら、聖なる知る者が支配の手綱を握っており、低位我からの妨害を許さないからである。そこでは至福そのものに到達するが、それは三界の状況に基づいたものではなく、非自己とは全く別の存在―時間と空間とそれに含まれる全てのものがなくなったときにでも決してなくなることのない存在―についての内的な認識に基づく至福である。低位界層のあらゆるイリュージョンを経験し、それを経験し終え、それを変性し、超越したとき、人はこの存在を知る。人が努力を行う小さな世界が消え去って、無に帰したように見えたときでも、それはなおも生き続ける。それは「私はそれである(I AM THAT)」という知識に根ざしている。

アリス・ベイリー「イニシエーション」 p.113

……このような意識を正確に語り得る言葉はない。それは悟性の領域を超えたものであり、マインドの及ぶところではない。しかし、この至福を投げ捨ててまで、なおも「在る」から「する」へと人を駆り立てるもの、それは何なのか。

ちょうど泣きわめく赤子を優しく抱きしめる母親のように、我々本質としての霊は、人間という三重の物質体を構成する質料の叫びに愛を注ぎ込む存在であるべきだ。しかし、無知に覆われた人間は、自身の物質的な衝動に翻弄され、それを自らの意志だと錯覚する。その結果があらゆる不幸と苦悩、そして罪悪感と自己劇化の源であるが、にもかかわらず、我々は「する」しか知らないのである。だから、我々がいかに語り、書き記そうとも、『それを実現するには何をすればよいか』という問いが返ってくる。このような段階の意識に対しては、正しい瞑想による霊的な静寂を教える必要がある。「する」の果てには、幸福と不幸の無限に等しい連鎖と循環、すなわち地獄がある。しかし瞑想は、この「する」という力を弱体化させ、ただ「在る」ことの至福と美を開示する。「在る」を突き詰めるならば、それは神であるとともに一つの私である。真我とは神我であり、それは永遠に完成されている全き現在である。

だが、人間の物質的な力が霊的なるものを覆い隠し、肉体脳が神我を知覚できぬ状態にあるゆえ、初心者は混乱する。『私に達成できるのか』と。だが、その「私」が何であるかを彼らはまだ知らない。それは、真の私とは無関係な想念や記憶に過ぎない。ちょうど認知症の老人が死んだ妻の名を呼び、その行方を探すように、初心者もまた「達成」というありもしないものを追い求める。こうして「する」という迷妄の中で、新たなカルマの鎖を編み出していくのだ。

「する」が問題である。「する」は欲求であり、経験への渇望である。しかし、老いた魂は、すべての経験に失望してきた運命の死に際にある。そして、外界に真の歓びが存在しないことを悟り、内なる帰巣本能に目覚める。こうして瞑想が始まり、「する」という無知に対して魂の光が注がれる。そして人間は、「しなくていい」という驚愕の真実に目覚めるのだ。

瞑想者とは何という強運の持ち主であろうか。ほとんどの人間は永遠に「する」ことに囚われ続ける。ありとある檻から逃れようとし、痛みには復讐を、劣等感には優越感を、快楽にはさらなる刺激を求め彷徨う。瞑想を知りえぬゆえ、行為から行為という強迫観念に捕らわれたまま、霊的に身動きが取れずにいる。しかし、恵まれた者はその迷いを見抜き、外なる意識を内へと向ける。そして低位の自己は高位の自己と出会い、互いに歩み寄る。こうして融合が促進され、ついには幸福を超えた至高の意識に至る。そこでは苦悩も悲哀も存在せず、愛と歓喜だけが流れ出す。そしてこの愛の主つまり魂として、我々はまだ物質に囚われた兄弟姉妹たちを助ける霊的奉仕への欲求に目覚める。愛し癒やすことだけが渇望になる。これは魂たちに対する魂の本能であり、より高い螺旋状の「する」である。その行為の源は神である。すべてに浸透する神が、あらゆる段階の意識を引き上げ、引き戻し、地上のすべての質料があがなわれたとき、我々の神はイニシエーションを受け、惑星は変容し、聖星になる。

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