夢幻

もう少し。これを、もう駄目だと解釈する者は多い。惜しいところで、諦めて去ってゆく。しかし、真の弟子に共通の特徴は、去りたくても去れないことである。真我から逃げ、霊的な落伍者という自ら押した烙印を癒やすべく、世俗の興奮や熱狂に逃れんとしても、以前のように楽しめる要素はどこにもなく、かつて親しかった者らの言動に共感することもならず、世に帰る家なしと自覚する。体験を通してこれを教えられる。周囲の環境や人、出来事が、魂の演出だということにわれわれは気づくだろうか。特定の学びのために、自ら選んで配置した演出のなかを、はてもなく迷える魂としてわれわれは生きている。やがて、人や出来事といった表面上のみせかけに惑わされなくなるだろう。それは劇の一部であり、本当に起きていることではない。その現実感を通して躍動したがる自我が、まさに認識によって抑えられるならば、真理はその背後にある。

最初は、生き抜くための学びであるかもしれない。われわれは生活上の問題に定期的に圧倒される。誰も助けてくれないだろう。あたかも自分一人、なぜこうも頑張っているのか、愚痴や弱音の誘惑がいつもそばにあるだろう。弟子は頼られている。自分の言うことを誰も理解しないが、一方で、みなが自分を頼ることに疲れ果てている。孤軍奮闘という物語。これは多くを抱えている。周囲の無能への怒り、他人の知的限界への憤り、不満とストレス、押し寄せる無理難題、歯を食いしばる自分という主役。これらの疲労困憊から、やがて瞑想を試みはじめる者たちの、なんと孤独なことか。悲痛に顔が歪んでいる。錯覚もそれを認める者には現実である。目をつむると、この我と向き合うよりほかにない。頼る者なく、血が止まるあてもなく、なぜ自分は生きているのか、なぜ生きねばならぬのか。やがて、こうした芝居がかった自分が何なのかを発見するだろう。そんな人はいなかったことを理解しはじめるだろう。というのも、苦悩し、唇は渇き、何かを求めるということにすら疲れた精神に、その放下に、内なる天国が微笑むからである。彼は唯一なる光に飲み込まれる。つまり、それが真実の我である。

肉眼で見えるものの、なんとリアルだったことか。先入観や記憶や、常識や防衛本能にすがりつくがゆえ、われわれは物事の表面に惑わされてきた。内在と融合し、われわれが魂ならば、もうわれわれは肉体ではない。そうであるならば、他人もいないのである。見渡すかぎり魂であり、自分である。ここが見えぬゆえ、あらゆるものの魂を見ずに、見た目上の人々の言動にいくたび惑わされてきたことか。こうして、表面上の人は自他共に消える。たとえ誰かと話をしていても、いわばその者の魂を介したものになる。あらゆる現象の正しさ、完全さがここにある。人の失敗や過ちは、彼の魂の管理下にあり、その魂もまたすべての魂の管理下にある。これらは理論的でもいいから、日常生活の考え方に適用されるべきである。批判の誘惑に打ち勝つ起点となるだろう。どこにも人はいないが、自分が特定の人だという思い込みは無数にある。このような条件づけられた想念形態や情緒的思考に負けなくなるだろう。こうして、かつての自身の反応や、存在することが前提の他者への感傷といったものは乗り越えられるだろう。内で存在の本質を知り、それを通してすべてのものの本質を見なければならない。とほうもない愛がそこにはあるだろう。

今日も子犬が思いきり走っていた。新しい体が身軽で喜ばしいのだろう。しかし、われわれも子供時分、しばらく軽かったのである。物心が余計だった。それ以来、重荷のない状態を経験できずにいる。気づかない人が多いだけで、例外なく、人は恐怖に縛られている。その恐怖は分離の錯覚が根本にある。自我と真我の識別不能が根底にある。世の苦悩や生の疲弊を通して、多くの肉体人間たちが目を閉じはじめている。こうして内なる飛翔が、自身にその軽さを思い出させる。錯覚の重荷を下ろせば、意識が違うだけで、人はしごく透明で軽くなる。瞑想は、しばらくすれば技術だとも言えるだろう。スポーツの習得よりは時間がかかるだろうが、報酬がよすぎる。その報酬がもともと在ったものだという結論も美しい。自我のときは努力の積み重ねが自らを助けるが、後半はただ内在の美に目をみはるのみである。彼が行為者であり不眠不休の愛の奉仕者である。彼によってのみ、自我は取り除かれる。騒音は静けさに溶ける。書物は自我への教えを掲載しやる気にさせるが、瞑想はその自我を壊し、魂が真我を教える。このブログは、人々の自我への強調を、魂への強調に置き換えたい。自分で頑張っている人に、そうではないこと、その人ではないこと、重荷を下ろすことが許されていることを信じてもらいたい。努力を美徳とする自我の時代はいずれ終わる。努力する人はいなくなる。働かざる者食うべからずと人は言うが、自分が働いているという尊大不遜はなくなる。動かしている生命、目に見えるものを見えるようにしているその原因、この美しき流れに身を任せることは、怠惰ではなく知恵である。

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