我々はいつも、「どうにかしよう」とする。異常を正常に、不満を満足に、焦燥を平和に、恐れを自信に、不幸を幸福に変えようとする。現在点は絶えず嫌われている。そして、今そのままの自身から逃れるべく何かを考案し、それが一時的に功を奏すならば趣味や娯楽や習慣にしてしまう。この逃避はその決定的な瑕疵に気づくまで永遠に循環する。「どうにかしよう」という発想が浮かぶまでは構わないが、それを実行に移そうと決めた時点で霊的には終わる。現在のA地点から、求めるB地点へ移行しようと試みた時点で、見出されねばならなかったものは延期される。問題とは、常に現在点にあるのではないのか。現在であるAを解消するのはBやXなのか。Aの叫びを知るためには、Aで在ることしかないのではないか。絶対にAから逃げてはならない。むしろ、Aで良いことを知らねばならない。Aというそのままに座し、そのままで在り、「どうにかしよう」ではなく「それでいい」と思えるとき、不満があるように思えたA地点に、我々は天国を見出す。最高の治療を見出す。どの言葉も陳腐に思えるほどの美しさ、素晴らしさをそこに見出す。
なぜこれが難しいのか考えたい。現在から離れゆく習慣とは何なのか。あるいは、何の引力が絶えず我々を連れ去ろうとするのか。肉体、アストラル体、メンタル体、それぞれを構築する質料の力である。これが分かったとき、人は諸体のフォースだけが問題であることを理解する。三界の物質のフォースが引力であることを知る。これが同一化の原因である。我々の瞑想とは、諸形態を組み立てる質料に対する科学的な取り組みであり、全ての低位質料に閉じ込められている生命を、まさに形態を破壊することによって引き上げる意識的な奉仕過程である。
低位形態は絶えず止むことなく活発であり、衝動的な欲望形態やダイナミックな知的想念形態を絶えず身にまとう。この「形態をまとう」動きが制御され、低位性質の混乱が静まったときにだけ、内なる支配者は自分自身を束縛から開放し、自らの波動を低位の変異物に課すことができるようになる。これは集中――常に観察者、知覚者、見る者の立場を堅持しようとする魂の集中した努力――によって達成される。
アリス・ベイリー「魂の光 」p.28
これを認識したとき、我々の瞑想は、フォースに対するエネルギーの賦課による変性となる。これが意図的に形態を破壊する魂の職務である。だから、瞑想とはただ目をつむっていることではない。完全に受け身になることでもない。我々は魂であることを認識し、魂として、霊つまり神の目的に参入することである。自然の意志に還ることである。これは魂として積極的で意識的な目覚めた瞑想である。魂やその他の波動の伝導体になっている者は読者の中に何人もいる。まだ感じられない人も、これはやがて感じられるようになるものである。瞑想により必要なメカニズムが発達し、人々がチャクラとかフォース・センターとか呼ぶものを通じて、魂つまりより大きなフォース・センターである自らの波動を低位の力に課すようになる。これを我々は「見る」と表現している。あるいは「方向づけ」である。見ることで高位我のエネルギーは方向づけられ、対象へと注がれる。その瞬間、見たものは変容される。例えば苦悩というカーマ・マナス的な形態にエネルギーを注ぐならば、つまり見るならば、それまで見ていなかったために苦しく感じられたものは消えてなくなる。それは錯覚だったのである。実在ではなかった。これは何に対しても当てはまるため、我々は見るために現在点のみが鍵にして救済であることを学ぶ必要がある。
宗教は、人間を肉に宿った霊であると教えている。物質(母)に霊(父)が宿るとき、魂(子)が受胎される。魂は解脱の直前まで自身を物質と同一化している。肉体人間が瞑想するようになると、自身である魂と物質が異なることが認識され出し、自らを解放するために物質に働きかけるようになる。このような瞑想はまだ世の中では一般的ではないが、未来において常識になるだろう。瞑想がなぜ人間における最大の奉仕となりうるのか、理解されるのではないだろうか。なぜ我々は物質にあえて宿ったのか。何のために物質に意識をとどめ置いているのか。何が為されんとしているのか。何に対して責を負っているのか。高位の波動、神のエネルギーの力の目的とは何なのか。どのような理由で我々を通り、何を為さんとしているのか。
秘教徒はいつも質料を扱っているのであり、様々な界層を形成している生き生きとした振動する質料を扱っているのである。しかしその質料は、以前の太陽系から受け継がれたものであるため、過去の出来事に色づけられており、「すでにカルマに染まっている」のである。……秘教徒の仕事は、存在するものの「質料と形態」の側面から注目の焦点を逸らし、どのレベルであれ、形態を生み出す源になってきたものに気づくようになることである。あらゆる形態を支配している生命の特質に対する必要とされる感応力や感受性を自分自身の内に培い、最終的には、この惑星を活気づけ、その活動の中に私たちが生き、動き、存在を保っている唯一なる生命の特質に到達することが、秘教徒の仕事である。そのためには、まず最初に、自分自身を特質づけているエネルギーがどのような性質のものであるかを発見しなければならない。このエネルギーは、三つの低位顕現体を通して表れており、後に統合されたパーソナリティーを通して表れるものである。自分自身がどのようなエネルギーに特質づけられているかを知り、特質づけられた生命様相に自分を方向づけるようになったとき、より一般的で普遍的な様相との接触の媒介になる精妙な内的メカニズムを発達させ始める。彼は自分自身の形態と全ての形態を作り上げている「原理に基づいていない」質料の特質、つまりカルマ的な素因と、そのような形態を通して表れることを望んでいる特質づけられた様々な原理を識別するようになる。付随して、次の太陽系の質料が現在の太陽系の質料よりも高い等級のものになり、結果的にロゴスの意志にもっと感応するようになるために、その形態をあがない、救い、清めるようになる。
「新しい時代の教育」 p.109