大きな時計

決して壊れない巨大な時計がある。

人知を超えた、美と精巧さに輝くひとつの時計がある。無数の部品で構成されているが、どの部品も、ひとりでに勝手な動きをすることはない。すべての部品は、時計をつくった者の意図する通りに動き、正確に秒を刻む。すべての部品は、時計が動くための部分である。

世界や運命も同じである。

世界は、その創造者の意図する通り、法則通り、正確に動いている。不正確であったことは一度もない。したがって、一人だけ勝手な動きをすることはできない。自由意志があると感じてみたり、起きることに偶然があると思ってみたり、そのように想像することができるだけである。部品は、全体のためのものであり、生命という一つの実体のためのものである。これを忘れるとき、人は個我意識や分離意識を持ち、「自身」に起こること、つまり全体の中の部分の動きに不満を感じはじめる。定められた動き、「自分の運命」は嫌だと言いはじめる。別の動き、何らかの理想を求めるようになる。この無知が、噛み合わない歯車というすべての苦悩、すべての悪の原因である。

人は偉大な部分でしかない。

時計が動くのは、時計そのものがより輝くためである。時計そのものも、より大いなる完成へ向けて前進しているのである。普通の時計は、電池を通して、電気エネルギーによって動かされている。このエネルギーなくして時計は動かない。世界や、世界における部分、人類のみならず動物、植物、鉱物といった森羅万象もまた、各々の魂を通して、より大いなる完成へ向けて、ひとつの電気的な生命エネルギーによって動かされている。この生命エネルギーがなければ何も生きれないし動かない。存在することもできない。我々を動かしているのは、唯一なるエネルギーである。

部品は、エネルギーが意志する目的のための道具である。

これを忘れるのが自我意識である。「自分」という独立した感覚を持ち、肉体や自身が世界の部分であることを忘れ、全体が目指すものではなく、自分の都合や自分の幸福に生き、全体の歯車から外れんと無理にもがいている。部品の動きは嫌だと言っている。それは無理である。なぜなら、人は何事も偶然だと言うが、実際は、完全に法則通りに動いているからである。存在するものすべては、法則の管理下にある。法則は、世界が成り立ちうるためのものであり、世界を構成する部分は、どのような存在であれ法則から逸脱できない。法則が自然であり、自然が真理にしてエネルギーである。法則に文句をつけることは無知にして不自然であり、その不自然はフォースである。

唯一なるエネルギーを知ることで人は部分から全体へ移行する。

個人という錯覚から自由になるためには、唯一なる生命エネルギーに感応できるようになる必要がある。その手段が瞑想である。瞑想を通して、人は何がエネルギーであり、何がエネルギーの間違った解釈つまりフォースであるかを知るようになる。するとどうなるだろうか。人は、自身というフォース体を、完全にエネルギーに従わせるようになるのである。これが整列である。これが瞑想状態である。このようにしてのみ、我々という三重のフォース体は、高位の振動を帯びるようになり、高位つまり全体にして一なるものへと溶け込むことが可能になるのである。

最初の衝撃は、魂エネルギーである。

多くの瞑想者が、頭部のチャクラつまりフォース・センターを通して、高位のエネルギーに感応し、その伝導体となっていることを、目覚めた意識で認識している。何人も、このブログの読者にいるではないだろうか。それは最初は額のわずかなさざ波である。弱い波動である。それはより強烈にならねばならず、不快なものではなく心地よいものにならねばならず、ひいては、より高位の波動を引きつける焦点にならねばならない。魂が、最初の神聖な焦点にして聖堂であり、内なる教師にしてすべての傷を癒やす医師であり、まごうことなき天才であり、不眠不休の奉仕者であり、人間における神である。

彼のエネルギーに接触できるようになったなら、あとはそのエネルギーに、自身のフォースを従わせるだけである。上からリズムを賦課し、古い振動を新しいリズムへ置き換えるだけである。例えば苦痛というフォースがある。それは見るだけで幸福に変わる。なぜなら、エネルギーは思考にしたがうからである。それを為そうという意図は個人のものでありフォースだが、単なる視覚、ただ見ること、純粋な気づきは、エネルギーが方向づけられるための媒介でしかない。ならば見ているのは誰なのか。それは魂と融合した人間つまり「聖人」である。融合が進展したとき、このような作用は自動的なものになる。個人は、魂に吸収されるが、個人というものはそもそも存在しておらず、また魂もそのとき実在とは見なされなくなり、霊つまり生命エネルギーという超越が真我であり、すべての原因であり実在であることを見出す。

しかし、まずは魂である。魂は我々にとってあまりに偉大である。したがって、このブログは、人間と魂をつなぐ橋、アンターカラナの前半、アストラル界からメンタル界への移行に関わり続けるものである。このような基礎が、人類という時計が指し示す今の時代には必要である。個人ではなく、全体の視野と意識を授けるのは魂である。彼と一体となり、個人意識、自分という原初の想念を乗り越え、真の生命の目的を知り、自らを聖なる道具、聖なる部品、聖なる部分として、神聖エネルギーの高度な媒介として、真に偉大なる生命つまり神そのものへと至らねばならない。これがすべての人間の目標である。

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