大丈夫

少しでも苦しいと感じているなら、それは霊的な道からそれる。少しでも誰かに責められていると感じるなら、その苦しみは自身の何らかの間違いを見つけるチャンスである。苦しみは、決して「お前を変えよ」とは言はない。学びは、浄化とか自己改善とか言うけれど、それをやるのは自我ではない。自我で自身の改革をしようとする努力と正しい性格構築の時期はあるだろうが、それは、自我つまり結果の世界では改善は不可能だと知るためのものであり、内なる自己だけが間違った自我を治療しうることを理解するためのものでしかない。

ある霊的教師に責められましたとその人は言う。半分は教師への不満、半分は正しいことが出来ないという葛藤。自我の悪癖をほったらかしにしろと言うつもりではない。感情的ではなく、知的にただ改善すればいい。しかし全部はできない。罵られれば腹を立てるだろうし、責められれば嫌な気分になるだろう。それでいい。自我には限界しかない。この自我を、つまり自分を、どれだけ改善しようと自分で努力しても、不可能である。誰が改善をするのか。なぜ改善しないといけないのか。このような抵抗は真の自身に対する無知に由来しており、したがって苦痛である。別の素晴らしい人格、理想的な人間にならないといけないと自身を責め立てもがくことは、ただただ苦痛である。はっきり言うが、あなたはそのままでいい。

自身の悪徳を治療するのは、内なる者である。彼だけが治す。あなたは治される方であることを覚えておかねばならない。あなたは藪医者であり治療するには全く不向きである。瞑想し、内なる名医つまり真我を発見するのが何よりも先である。これには、あなたの意識状態で言えば、時間がかかる。のちに想念を統御することで時間は打ち消されるが、そのようになるまでは、前進はゆっくりである。したがって忍耐に次ぐ忍耐という闇の時期をぎりぎりまで追い詰められながらくぐり抜けることになる。この時代に役立つのは信念である。瞑想を信じることである。自我でしか最初は瞑想できないが、その自我が、瞑想することで徐々に弱くなる。そして、強い者が内におられることがゆっくりと理解できるようになる。彼の方が、意識内にて強くなる。そうしたら、可能なかぎり、彼に全部を委ねることである。彼の波動を生きることである。

こうして生はシンプルになるだろう。内なる真我の波動と、外なる自我の波動を識別できるようになり、あとは住み慣れた自我の古い波動つまりリズムの誘惑に負けるのではなく、内なる自己の、最初は厳しいが正しい波動に諸体を慣れさせるだけである。こうして融合していくだろう。外の人間つまり自分だった者は、相変わらず道徳的に無能な一面があるかもしれない。そこは知性で補い、可能なかぎり人を傷つけないこと、害を与えることをしないこと、考えて正しく生きることを自我で誓い、目指すべきかもしれないが、同時に、限界があることも覚えておいてもらいたい。それを一生言い訳にする人もいるが、誠実ならば、そのような逃避、つまり自我のリズムに安住することに正しい未来がないことを理解するはずである。

あなたの霊的な教師は、責めるつもりはないのである。あなたも、責められたと思う必要はない。やがて、何も感じなくなるだろう。何を言われても関係ないという感覚が成長するだろう。というのも、新しい意識レベルが向こうからやって来るからである。誰がどんなにあなたを誹謗中傷しようとも、その者の無知に対する愛やいたわりの感覚は自然に芽生えても、あなたの本質においては無関係だという揺るぎのない平和に支配されるだろう。それは、内なる強者があなたを掴んだからである。この強者に出会う方法は、生涯と自身の一切をささげた結果を求めない瞑想である。正しいから瞑想する、これが動機である。そして日常では、なるだけ低い波動と関与しないことである。趣味や娯楽も、低いものから高いものへと移行させられるならばなお効果的である。結局気づくことは、自我としては何もする必要もなければ、何かになる必要もなく、そのような物語が展開されるために必要な装置が自分であることを知り、世界の中の自分ではなく、内なる者と融合することで、自分がその原因である世界を飲み込まねばならない。こうして人は、運命を支配する側に回る。恐れていたものは、全部錯覚だったのである。間違いに生きるとき、意識は錯覚を映し出し、我々を苦しめる。

瞑想は出会いである。間接的な知り合いに、一年間隔で女にふられている人の良い男がいる。今度はいけると思ったと言う。毎日LINEに返信は来ていたと言うのだが、そんなことよりも、なぜ自分の人生に女性がいなくてはならないのかを知る方が賢明である。なぜ結婚したいのか、自分に空いているどんな穴を埋めてもらうことを相手に期待しているのか、おのれを知ることが先である。われわれが空虚なのは、霊的に満たされていないからである。女や金や、無常にして非実在なるこの世のものが、彼の空虚を埋めることはあっても、それは一時的であるため、本質的には不可能である。だから、外へ何かを求めるより、求めさせる空虚の意味さえ理解すれば、もう何も求める必要がなくなるのである。自分に精通することを通し、真我と出会うことによってのみ、空虚は満たされることになり、求めるのではなく、与えることが喜びになるのである。

目次