大和

「現世安穏」はイニシエートの特徴である。「金剛不壊」もまた熟練の弟子の特徴である。それがなぜかをここに発表したい。それは、イニシエートが常に対象に気づいているからである。この文章だけで、それがどれだけ途方もない価値を秘めているかを誰かがやがて理解するであろう。

観照者とは、常に観照されるもの、あるいは知覚されるものに気づいており、気づいていることで対象を意識内にて無効化している。前の記事で聖徳太子に触れたが、説明が不十分であると指摘されたから、その者の逸話について話すならば、彼は同時に十人の話を聞くことが出来たと言われているが、十は完成の象徴であり、十人の話を同時に聞いたとは、現世のすべてを同時に統御したという意味である。これが金剛不壊である。十つまりすべてに同時に気づいていることで、気づかれたものはすべて彼の意識においては存在しておらず、彼は非実在の中に実在すなわち真我を見ており、それは「神のみぞすべてなり」の境地を意味している。

「見る」とき、見られたものは存在できないのである。「気づく」とき、気づかれたものは存在していないのである。誰がこの事実を知っているであろうか。しかしながら、これこそが一への錬金術である。すべての二元、「母親の母胎のようにすべての森羅万象が大日如来の中に包み込まれている様」、一元が二元を胎蔵し飲み込む。これが大日如来意識である。

だから常々、「私はすべての原初」であるとか、「すべては私に内在する」とか、「すべては私に飲み込まれる」とかいった表現をしてきたのである。この仏教の言う「胎蔵」は、まさにそのことを指している。これに関係する秘教の文章を一つ挙げよう。

直観とは、創造の要因、顕現の法則、真理の様相をマインドによって把握することでしかない。これらを魂は知っており、これらはアイディアの世界から放射されるものであり、私たちが知り見ているすべてのものを生み出すエネルギーの性質を帯びている。これらの真理は常に存在し、これらの法則は絶えず活動している。マインドが訓練され、発達し、焦点を合わすことができるようになり、マインドが開かれたときに初めて、それらは認識され、後に理解され、最後にその周期と時代の需要と必要性に合うように調整される。

アリス・ベイリー「秘教瞑想に関する手紙」p.30

宇宙すなわち全顕現の原因は私である。直観の領域(アイディアの世界)すなわちメンタル界を超えたブッディ界に行き来することができるようになるとき、人は魂としてこれを理解する。人は大日如来としてこの真理を胎蔵する。このとき、同時にすべてのものを聞くことが可能になる。

イニシエートのこの認識はすべて、音についての突然の理解によって起こり、初期段階の弟子がヴィジョンの意義に目覚めたように、内なる耳が声の意義に目覚めることによって起こる。そのため、第三イニシエーションのとき、彼は星を見て、音を聞くのである。最初の二つのイニシエーションのとき、彼は光を見て、言葉を聞くが、これは初期の経験の高位の相応である。

光線とイニシエーション上 p.114

そして聖徳とは、つまり聖なる徳とは、魂の器であるコーザル体を意味している。太子とは、皇位や王位を継承する王子や世継ぎを意味するのではなく、神の子を意味している。神は霊である。魂は霊の器である。そして人間は魂の器である。人間が現世にて聖徳を積み、死ぬ時に唯一持ち帰ることのできる経験の果実――コーザル体の聖なる徳の中身を積み込み、そのようにして魂を知り、自らを魂と知り、キリストは子でしかなく、父なる至高霊のみが神にして真の実在であり真我であることを理解したとき、そのような真理は「その周期と時代の需要と必要性に合うように調整される」。

大和魂とは、「外国と比して日本流であると考えられる精神や知恵・才覚などを指す用語」ではなく、「大いなる和である魂」を意味しており、それゆえ聖徳は、「和を以て貴しとなす」と言ったのである。したがって単なる現世の平和を意味しておらず、顕現の背後の原因の世界の和の担い手である魂を意味し、魂すなわち大日如来として、森羅万象を我が内に胎蔵し、すべてとの一体性を知り、大いなる調和を成し遂げてこそ「尊しとなす」と言ったのである。もし聖徳が、単に平和でありましょうという意味で言ったのならば、それは小学校の道徳の先生でも言えることである。しかし、未だに日本人は、つまり大和の者は、この意味すら分からず、人間関係の和であるとか、争いの対概念としての和であるとか、人間や個人レベルで解釈しており、大きな和が、現世の背後つまり結果の世界の背後の原因の世界における霊と物質質料との和によって、惑星がその象徴でしかない大日の円と球の完成を成し遂げ、神の計画の完成をもって大和であり、その和をもって尊しとなすという意味と意義には気づいていない。それはひとえに、人類がまだ魂を認識しておらず、分離した個人だからである。

日ノ本とは、太陽信仰に基づく「太陽が昇る東の方向の国」というあまりにも表面的すぎる意味ではなく、魂である真我を意味している。太陽信仰とは、稲作や農耕の恵みとして太陽を崇拝するといった原始人的な解釈ではなく、我々が太陽天使すなわち魂であることを教えるものである。ゆえに日本神話では、アマテラスすなわち太陽神は、イザナギが禊をし左目を洗った時に生まれたとされるが、左目とは、悪すなわち物質の様相への執着を意味しており、そのようなイリュージョンの禊をしたとき、顕現の背後の魂という太陽神がパーソナリティーによって知られるということを意味している。霊的文献では、左は常に悪や物質性を意味するものとして語られるものである。

人間のシステムでは右目がブッディに、左目はマナスとルシファーに相応している。

H・P・ブラヴァツキー「シークレット・ドクトリン」第三巻 p.447

このような物質界つまり現世から我々を守るのは、幻の背後の実在である。幻は、それが見られたときに偽物であると見破られる。このようにして左目は洗われる。人間は、自らによって分離や対象化といった幻を生み出しておきながら、自身で作り出したものに縛られている。目に見えるものを実在だと思っているからである。それは、実際には見ていないことを意味している。現象の中にいながら、現象に気づいていないことを意味している。現象に常に気づいていないゆえ、現象の中にいるのである。逆転して、現象に胎蔵されているのである。現象という非実在を右目で直観したとき、左目が見ていたものは消えて無くなるだろう。そうすることで、二元は一元に帰し、森羅万象は大日に胎蔵されるだろう。人間が内なる大日を知って平伏すことが真の太陽信仰である。これが、我々の世界で、どれほど強大な力を我々に与えるかを知る者は少ない。我々は世界や運命の犠牲者ではなく、その統率者となることができる。これを現世安穏と言うのである。現世から切り離され、大日として影響を受けぬことが金剛であり不壊である。このようなことは、すべて瞑想で自ら見出すことが可能である。

そして、見出すことがすべての人間における天与にして生得の特権であるならば、なにゆえにそれが特別な悟りと言えるであろうか。悟りや真我実現のような概念は、大袈裟に言い表すことで、我々には届かぬものとして、我々に言い訳を与えるものでしかない。なぜなら、我々は実際は物質的なものしか知らぬゆえ、物質的もしくは精神的な幸福を明らかに追い求めているからである。それゆえ、自分は無能や凡人で、特別な者だけが悟ることができると考えることは、物質的な自我にとっては非常に都合が良いのである。しかし、いつの日にか、その自我に耐えられなくなるであろう。いま私と思っている者に我慢がならなくなるであろう。もうおとなしく閉じ込められていることはできないと、はっきり言う日が来るであろう。

ニサルガダッタ・マハラジは、自身を凡人だと思っていた。すると彼の師はそれを見抜き、「あなたはすでに至高の存在である」と告げた。マハラジは、師が嘘を言っているとは思えなかった。ゆえに、その至高の存在を内に見出さなければ死ぬしかないと思うまでになった。私もこれに似ているところがあった。見出さないということは、永遠の苦痛を意味しており、それには耐えられないから、もし見出さないなら自殺ということになることを理解した。もし今生、安易に銃が手に入る国に生まれていたならば、いち早く頭か喉を撃ち抜いていただろう。もし麻薬が安易に手に入る環境に生まれたいたならば、成人を迎える遥か以前に過剰摂取で死んでいただろう。しかしここは日本だった。それでも、私は銃を手に入れようとしていた時期がある。それは、常に誰かと争っていたからでもあるが、実際は、常に自殺したかったからである。それがどうしても手に入らず、ゆえに二十歳まで生きていたなら猟銃の免許を即座に取ろうと考えていた。しかし、十九の時、たまたま手に取った本が、クリシュナムルティの本であった。そのタイトルは、「自我の終焉」であった。

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