大日如来

誰にでも明らかなことは、世界を「見ている者」がいるということである。意識が見ているのだろうか。マインドと脳が見ているのだろうか。そのような側面が静まり返ったときもなお存在する純粋な主観のことであろうか。我々は夢を見ているとき、そして起きているとき、常に外に何かを対象化して見ている。つまり見ている者がいる。それを普通の人間は安易に私と呼ぶ。それが安易すぎるゆえ、ラマナは「その私とは誰か」と踏み込ませようとした。この「見ている者」自体に意識を反転し、多様な万象という客観から反対方向へと意識が向き直り、見ている者自体を見ること、その集中に安らぐこと、そのようにして撤退すること、顕現の背後の観照者自体と融合し顕現も二元もなき観照それ自体で在ること、これが瞑想であり真我探求である。これが大日如来意識である。

幾日か前、瞑想で光そのものへ融合せんとするその瞬間に、「大日如来」という言葉が内から発せられ、その漢字を内的に見た。私は仏教を学んでいない。如来という単語を聞いたことはあるが、大日如来とは何か。マインドがその光ゆえに勝手に作り上げた造語なのか、それともこの世に存在する単語や概念なのか。ひとまず私は何が大日如来なのかを内なる眼で見た。それはキリスト教で言えばキリストと言うよりキリスト原理であり、イエスという媒体を借りて説法したキリストの原理すなわち魂であり、日本の国旗が意味しているものであり、輝ける日輪、真我である。それは顕現の背後の美しく輝く私である。これ大日如来意識なり。

瞑想から出た後、この世で実際に調べてみると、そのような単語は仏教用語として存在した。たとえばこう書いてある。「大日とは大いなる日輪という意味です」。それは魂であり私だ。「密教では大日如来は宇宙の真理を現し、宇宙そのものを指します」。大日如来は、宇宙の真理ではあるが、宇宙以前の真理のことだ。宇宙で何を想像しているのか分からないが、全顕現の背後の真我が大日如来である。続けて見ていこう。

大日如来には悟りを得る為に必要な智慧を象徴する金剛界大日如来と、無限の慈悲の広がりを象徴する胎蔵界大日如来という2つの異なる捉え方があります。金剛とはダイヤモンドのことを指し、智慧がとても堅く絶対に傷がつくことがないことを意味しています。また、胎蔵とは母親の母胎のようにすべての森羅万象が大日如来の中に包み込まれている様を意味しています。

金剛とは、パーソナリティーと魂が混合したとき、顕現のいかなるものもそれに触れることができないという意味での金剛であり、傷がつくことがないという意味だ。それはマインドを超えているがゆえに智慧である。強烈に智慧である。この智慧と光つまり大日は同じ意味である。それは、悟りを得るために必要な智慧ではなく、道そのものになったとき道が分かるように、大日如来になったときに開かれる智慧つまりブッディの智慧であり、悟りを得るためなどの人間の小賢しい解釈とは何の関係もない。そのような小賢しさが照らされ、おのれの利己主義と無知を知り、おのれを放下させ、大日そのものに平れ伏したとき、我々は大日であり智慧である。それは全顕現の背後の実在を指し示すものであり、また導くものであり、キリストが父と呼んだ存在へと連れ戻す栄光の力であり、それは大日如来すら超えた無形無相の究極的な純粋生命である。

ご利益は所願成就です。

こんなことを言っていると幼稚園生にすら馬鹿にされるだろう。

また現世安穏です。

それは結果であり、現世安穏を求めるような精神では到達できない。逃避願望に生きる者は、自分が何を恐れているのか、その恐怖自体を見ることがなく、恐怖から逃れることだけを考えるため、決して本物が見られることはない。怖いものを真正面から無執着に、つまり眉間から魂の目で照らし見たとき、大日如来の智慧すなわち直観が恐怖というイリュージョンを追い散らすのである。この光なる大日に守られた意識が金剛であり、低位のいかなる波動も触れられぬゆえに不壊であり、それは現世の安穏ではなく、大日の安穏ゆえの現世からの自由を意味している。この「ご利益」という、弱き人間のグラマーにつけ込むような詐欺的な言語を発明した者は誰か。また、ご利益を願っているような逃避的な人間の弱さの背後にあるのは何なのか。これを宗教が教えられないのなら誰が教えるのか。神仏と我は一体にして同一なり。これを教えず、神仏を拝んだり、神仏を畏れさせたりすることを教える宗教には、いかなる大日の光も見られぬ極めて未開な現代の暗黒そのものが映し出されている。

本来、如来は出家後の釈迦の姿をモデルとしているため装飾品は身に付けていませんが、大日如来だけは別格で豪華な装飾品や宝冠を付けています。

豪華な装飾品や宝冠とは、魂と魂が照らし出すものの美しさ、喜ばしさ、素晴らしさといった霊的な至福に満ちた高位の感覚知覚の象徴でしかない。そこではすべてのすべてが美しいことが知られる。この神の美を教えるのが大日の光であり、光そのものが神の美の顕現体である。

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説明が終わったところで、大日如来の商品なるものへと導くボタンが最後にあった。だから「ご利益」などと言っていたのだろうか。……

人の心の弱さにつけ込む宗教ビジネスの、なんと卑しく浅ましきことか。そこには霊を指し示す大日の光も智慧もなく、物質にしがみつかせる悪の小賢しい浅知恵しか見えぬ。「大日如来の商品」とは何なのか。本気で言っているのか。それほどまで金の世界に目がくらんでいるのか。金を、金をと、金のためなら大日如来すら餌となり、兄弟姉妹の心と頭の弱さを狙って金を釣り上げようとする。大変なカルマという負債を抱えることになるであろう。「大日如来の商品」は、欲しい人には無料でやりなさい。真の大日如来の領域に、対価を求める精神など存在できぬこと、そこには一体ゆえの愛と慈悲しかなきことを、いったい誰が教えるのであろうか。

我、大日如来なり。そう遠くない未来、子供ですらこれを理解するだろう。いまの人類でこれを理解するのは、真剣かつ誠実に道を歩まんとする少数の真の弟子にしか望めぬであろう。弟子とは、大日に習う自我のことである。内なるキリスト原理から学ぶ瞑想者のことである。瞑想とは大日なり。誰が日本の国旗を思いついたのか知らぬが、「日出ずる国」と聖徳太子に言わせたのが事実ならば、聖徳は明らかに弟子であり、大日にひれ伏しており、大日が何であるかを知っていたに違いない。そこから着想を得たのが日本の国旗なのだろうか。あれは大日を表したものだ。その意味で、日本の国旗は格別に優れている。我大日なり。これを思い出させる旗印が、白の中に燃える大日の円である。

我々が客観的な世界や、それらに向かおうとする外向的なマインドの癖を意識的に反対に向きかえ、我そのもの、見ている私そのものに、頭からではなく直観から向かうならば、大日如来は決して商品でも拝む対象でもない。我、大日如来なり。この輝かしき境地に至るであろう。この世で苦しんでいる者だけでなく、全人類、ひいては森羅万象が救われるのが大日の世界である。そこは金剛であり、不壊であり、無限の智慧、無限の愛、無限の慈悲、無限の至福という神そのものを我々に啓示するであろう。そして、それが我々であることが知られるであろう。これが真我実現であり、悟りであり、完全美であり、完成であり、神や仏そのものという意味でご利益である。「悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています(コリント二6:10)」という、この世のすべてを放棄し、犠牲にした者だけが知ることのできる霊的ご利益である。それゆえの現世安穏であり、それは自分が誰であるかを知ったがゆえの、永遠の平和のことである。

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