ギフト

義務

霊的に生きる前に、肉体をこの世で維持する必要がある。瞑想に集中したくても、我々はしばしば貧乏である。また病気である。肉体の痛みを堪えつつ、精神の疲弊に持ち堪えつつ、過労に身を投じ、蓄えなどないも同然で、自身や周囲を懸命に養っている。多くのエネルギー、多くの時間を費やし、生の活動や焦点が、肉体と精神の安定を守るための戦いと化しており、それを強いられている。いつの時代も民は苦しんでいるが、我々は民であり、搾取される側であり、世界は不公平かつ理不尽であり、不幸のあまり、生はしばしば残酷に見える。なぜここまでして生きねばならないのか。この問いに徹底して苦しむ。

天啓

偉大な霊的才能、幸運な霊的天分の一つに、苦痛を感じる能力の高さがある。苦痛ゆえ、諦めて死ぬか、苦痛を超越するかの二択しかなくなる。苦痛は毎瞬であるため、その毎瞬、切実にならざるを得なくなる。そのため、生き抜くならば、やがて苦痛の”からくり”に通じるようになる。

何事も、自作自演である。どんな苦悩も自作自演であり、突き詰めれば、世界ですら自作自演である。このことをはっきり覚えておくならば、それはお守りになるだろう。実在以外は、存在していないのである。存在するものは、自身によって作られている。錯覚と自作自演は、我々において同義語である。苦悩や悲哀といったものは、アストラル界の錯覚つまりアストラル的な自作自演である。メンタル界の自作自演は、アストラル界の錯覚を貫き通したときに、次の問題になるだろう。秘教徒がグラマーと呼ぶものが問題でなくなったとき、本質的な問題がメンタル界のイリュージョンになるだろう。

破滅的な出来事

これは誰にでも訪れる。人によって、何が破滅的であるかは異なる。それはつまり、出来事そのものではなく、出来事に対する個人の受け止め方に問題があることをはっきり示している。金持ちが破産するとき、その落差に耐えられず、しばしば自殺する。もともと貧乏であれば、常に破産状態であり、常にその日暮らしであり、精神衛生上、貧乏が悪くないものであることを知っている者もいる。何事も、受け止め方は百人百様である。同じ出来事でも、全員が違う答えを導き出す。それは、条件づけられているとはいえ、自分で決めているのである。ここを徹底して学ぶ必要がある。出来事ではなく、出来事が自身に与える影響力が問題であり、この影響力がどのようなものになるかは、自分が決めている。

事例

家族のために身を粉にして働いてきた結果、羽振りのよかった時代は去り、借金で首が回らなくなり、破産することになった男の話。宝と呼ぶべき娘も見当たらない。金の切れ目が縁の切れ目とばかり、妻が去ったのは仕方がない。しかし、離婚の成立直後、妻が子の連れ去りを敢行したことは絶対に許せなかった。しかし法的な不備によって、正当に取り戻すことは叶わず、何もかもが失われたと彼は感じた。もう生きていても意味がないと思った。これ以上は無理だった。

彼には瞑想の習慣があった。豊かな時代のときも、それが一時的であることを知っていた。自我ではなく真我が本質的な目的であるとみなし、瞑想は絶対の習慣だった。結果、それなりの意識状態に入ることができた。自分が肉体でも精神でもないことは、瞑想で体験済みのことだった。

しかし、出来事が影響して、その意識に入ることができなくなった。つまり、彼はまだ何かに執着していたのである。金銭による安楽かもしれず、娘かもしれず、妻への恨みかもしれず、努力の結果としての社会的な成功のプライドかもしれない。いずれにせよ、「それが失われることは不幸である」と自らに言明したのである。その結果、彼は不幸になったというだけである。それは彼が決めたことであり、彼なりの出来事の解釈でしかない。こうして、彼はその必要が必ずしもないのに、出来事を不幸と解き、不幸感を作り上げ、やり場のない不幸によって負の連鎖を生み出すことになる。

彼に何ができるか

彼は物語に入り込んでいる。起きたことは起こるべきだったから起こったことを忘れている。法則通りに起きた出来事に対し、感情で目が見えなくなり、抵抗しようとしている。それが法則でも結果が嫌だと言い、その結果だけは困ると言い、意気消沈し、コントロールできない運命の流れに楯突いている。存在しないものの現実感に圧倒されている。全体の視野ではなく、全ては自身の画面を通して解釈されるようになる。それが自作自演と言われても、自分で作り上げたものであるという理屈を言われても、どうしようもない可能性がある。

この場合、彼が瞑想していたことが幸いするだろう。彼は、自分の好き嫌いに生きないことを誓った者である。自我に生きず、真我に生きることを誓った者である。どのようなことであれ、この世のものは諦めなければならない。すべきことをするのは自由だが、自身が結果をコントロールする者であると錯覚したり、行為に情緒を交えてはならない。自分が何者であるかを思い出し、瞑想で落ち着かねばならない。出来事や現実感のせいで、瞑想できないかもしれない。辛いときは休み、エネルギーを蓄え、起きたら可能なかぎり瞑想に専念することである。やがて、内なる者との接触は回復するだろう。枯渇したかに思えた知恵が、瞑想が生み出す沈着によって溢れ出すだろう。彼という内なるマグマによって、あらゆる錯覚が頭部の噴火によって溶解しゆくだろう。真我のエネルギーが、錯覚させる彼のありとあらゆるフォースを上から焼き尽くすだろう。彼は、不幸を決めたのは自分であることを、今や幸福な存在としてただ知り、文句のない状態に至るだろう。物語からは引き上げられるだろう。瞑想が終わった後、彼は以前の彼ではないだろう。運命は引き続き生きられるが、それは自我からではなく、真我からのものになるだろう。

本質

今日が、明日が、たとえ何であろうとも、本質を忘れなければ問題はない。「行うべきことがあるというグラマーではなく、敏感に感応するという問題に専心しなさい」という教えは、基礎である。内在者に感応し、彼と接触できるようになることが本質である。自我ではなく、真我のみが重要である。例外はない。真我のみが重要で、他は錯覚である。自我に生きるなら不幸が予定表に組まれることになるが、真我に生きれば、同じ出来事でも受け止め方が変わるため、何の影響も受けないだろう。徹底して至福だろう。絶対に誰も恨まず、物事に怒りの矛先を向けず、徹底して愛であるだろう。ある進化段階が達成されたなら、それ以降の自我は、真我なしに生きれるようにはできていない。彼は高位のものに敏感になると同時に、あらゆることに敏感になり、自我においてはしばしば繊細になる。この自我のもろさは、天与のギフトである。自我が弱まらねば、真我は強まらない。「私が小さくなることで彼は大きくならねばならない」とヨハネが言わねばならなかったように、我々の弱さは真我の予兆である。だから喜んで死ぬべきである。喜んで真我に明け渡すべきである。彼は強くなるだろう。彼の存在感は必ず大きくなるだろう。そのとき、我生命なり、我神なり、そのような境地に至り、真我覚醒するだろう。

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