天国意識

この世界の背後の唯一なる本物に到達したと私が包み隠さず言うとき、ほとんどの人は信じない。なぜなら、そのような者には見えないからである。妻でさえ、どこまで本当かは疑問に思っている。聖人のイメージというものが人にはあり、素行や性格といった属性がそれにそぐわない場合、偽物として、嘲笑的な態度にしばしば出会うし、頭が少しおかしい人であるという推測を受ける。したがって、ある程度の学びを終えた者にしか、助けたくても、まだ話したり教えたりすることができない。

沖縄の友達が、鬱病で入院していると聞いていたが、自殺した。もったいないことである。さぞ辛かったであろうと思うが、それすら自作自演だということに、早く気づいてほしかったものである。その者が悩み苦しんでいるとき、私は彼に霊的な話を一度もしたことがなかったが、一部を話すことにした。すべてを超越することが可能であり、鬱病の治療などは最も容易いレベルのものであり、簡単に、瞬時に癒せることを電話で話した。その手段は瞑想であると言うと、言ってることが分からないでもないと彼は言った。私は簡単な瞑想を教えた。彼は、まさか私がそのようなことをしている人間だとは考えたことがなかったゆえ、戸惑っていた。そして、基本的に嘘くさい話であるという態度を自己防衛のために築き維持していた。こういう話をしたのが彼とは最後だったと思う。このような精神の病や、自殺や、早すぎる病死といったものを、この世界では幾度となく見せられてきたが、介入の許されないものが多く、見た目上の悲劇の背後にある栄光にのみ、焦点を当て続ける必要があることを学んできた。ゆえに、なぜもっと積極的に助けることをしないのか、と問われても、それを理解してもらうのは難しい。私が言えるのは、まず己が、真の自己を見出すことだけが重要だということである。それによって、神秘でしかなかったものの多くを理解し始めるだろう。

私より瞑想している人はこの世に何百万人もいる。このほとんどが到達できないのはなぜなのか。すべて間違っていることを知らねばならない。我々が信じているものや、存在すると思っているものは、錯覚である。誤った解釈であり、未熟な推測にしてただの想念でしかない。霊的欲望に奉仕するのではなく、正しい瞑想に我と我が身を委ねるならば、自我意識の知覚範囲に、本物がやがて訪れる。それが真我である。これだけが本物であり、あとは専門用語を使えばイリュージョンである。本物に至るとき、そしてそれが真の自己であることを知るとき、我々はすでに天国にいたことを知るだろう。この世のものを、すべて捨て去るほど瞑想に、本物に傾倒し、まったく無努力に、この世のすべてを顧みず、それへと闖入してきたからこそ、天の扉が開かれたのではあるまいか。ここで重要なのは、私が全く努力していないという点である。霊性とは、競争ではなく、また一部の者のみが争って勝ち取るものでもない。そのようなものがあるならば、それは求めるだけ無意味であり、無価値である。最初から在るもの、この世界のような結果の原因つまり原初であるもの、それは神にして私じしんである。この神聖意識に到達するや、二度とこの世で苦しむことはなくなるものである。苦しみは、このような本物に抵抗しているときにのみ感じられるものであり、本当の霊的学問における学習不足の産物、すなわち無知の必然である。

そう言いつつ、私もまた、この無知を長く彷徨い、悲惨な苦しみに膝を屈し、日々に自殺したいと願ってきた時期もあったが、そのような時期がなければ、本物の発見もなかったのである。それにしても、発見に至るまで、あそこまで苦しまねばならないのか、それは少々ひどすぎやしないかと思わないでもないが、我々の神はそのような手法で学びを得ることを選択されている。したがって、今苦しい人も、悲観しないでもらいたい。その経験は貴重なものであり、それを経てこそ、真に助かるというものである。この世にいるように見えながら、この世を超越することが可能である。この話が本当ならば、私は人々が言う聖人と同列ということになり、したがってそれはありえないと言われる。かわいそうに、すべてが聖人であり、聖なる存在であることが分からないのである。自分を人間だと思っている。その人があなたではない。その人とあなたは完全に無関係である。その人は存在すらしていない。つまり実在ではなく、本物ではなく、偽物である。このことをやがて見出すだろう。そして、それまで自分だと思い見なしてきたものと無関係であることにこの上ない喜びを覚えるだろう。

たとえ一人か二人、私の話を信じる人がいたとして、次は、どのようにして至るのか、という疑問や質問が来る。最初から存在するものにどうやって至るというのか。そのようなもがきや、あがきといったものから静かになることが瞑想ではないのか。もがき抵抗しているのは自我である。その自我を静かにさせるのが、本物の力を流し込む瞑想であるが、現行の自我で何かをすることが瞑想だと勘違いしている人の、なんと多いことか。聖人の本の話を信じる時期を否定はしないが、それはごく初期段階である。彼らはクリシュナムルティを読み、彼が「私は何も信じない」と言ったその意味を理解するまで、自我にしがみつき抵抗するだろう。何かを信じることで心の支えとし続けるだろう。しかしなぜ、何かを信じる必要があるのか。信じるものは、すべて本当は正しくもなく偽物であることを理解しないと、先へは進めない。つまり、考えることで進歩を自ら阻害しているのである。考えるという具体マインドの統御不足が、アストラル体を統御したあとに、可能になるだろう。それには実際、聖人が「反対方向」に向き直るよう教えてきたように、今あなた方が見ているような客観ではなく、主観に向かい続けるという技術を習得することが必要である。このような過程で自然とアンターカラナは構築され、ついには貫通し、この世に在りながら天国に至ることが許され出すのである。

私や、あるいはこのような話は、まだ到達していない意識たちからは、理解されないのは仕方がない。実際にその人は天国意識を知らないのだから、どこまで本当なのかを常識と知性を用いて慎重に確認することは良いことである。しかし、拒むことは何の助けにもならないのだから、私を信じる必要は全く不要であるが、自らのみの瞑想でその静けさの中に本物を見出すことは、自分でできるではないだろうか。そこでは、誰の話をも信じる精神があってはならない。真理は、我々が考えるようなものではなく、考えているものを超越しているのだから、考えないようにすることが道であることを理解する必要がある。考えないとき、より高次の理解能力が顕現するようになり、考えずして知る能力が徐々に身につくものである。これを秘教徒は直観と言っている。またジュワル・クールは、瞑想とは人を直観的にさせるものであると言っているが、真理への道は直観によって辿るものであり、それは最も容易い道である。なぜなら、導く力が勝手に本物へ連れて行ってくれるからである。だからラマナ・マハリシは、深淵から別の何かが立ち現れ、それが後の面倒をすべて見るようになるだろうと言ったのである。これは完全に無努力である。この無努力をラマナ・マハリシであれば明け渡しと言った。何もする必要はなかったのである。すでに到達しているのだから。到達していないとか、自分は弟子だとか、無能だとか、あらゆる想念や情緒と同一化していることだけが妨げなのである。これらを黙らせる力というものが内在しており、瞑想はこの無限力を解放させるものである。人々は、外に外に何かを求めているが、この我そのものが完全にして唯一なる真理であるという事実をおいてほかに、コペルニクス的転回などと呼べるものがありうるだろうか。

参考にしてほしいから言うが、私は日に一時間か二時間しか瞑想しなかった。修行的なことは一切していない。普通の人と同じような生活をしながら瞑想しただけである。それは、瞑想することで何かを求めるという精神ではなかった。瞑想しないと苦しいから瞑想していただけである。したがって、瞑想させられていたという言い方が適切であり、瞑想は、非瞑想的な当時の私においては強制させられたことである。道に足を踏み入れると、本当に踏み入れた者は、後戻りできなくさせられる。なんという恩寵だろうか。内なる深淵から何かが立ち現れ、彼が唯一の教師になり、彼が強制的に自我意識を導きはじめ、瞑想させるようになるのである。したがって、もう瞑想しないと苦しいと言うようになり、定期的に瞑想意識に入らないとこの世で活動はできなくなり、ついには抵抗する力もなくなって、あらゆるものが明け渡されるのである。この教師は魂であり、内なるキリストである。キリストが、在天の父へと導く役割を果たす。こういう話を、誰に真顔でできうるだろうか。また誰が聞く耳を持つであろうか。それは成熟したごく一部の魂にしか響かないものである。

我々が神と呼ぶ存在は、例外なく全ての者を導こうと努めている。その準備は整っている。この力に導かれるようになるまでは、学習したり、自身の良くないと思われる部分つまり有害性を無効化するよう努めるような試みは多少効力を持つが、実際には不要なものであるという認識にやがて至るだろう。なぜなら、真の我々はすでに完全だからである。偽物に対しては、本物をぶつける以外に方法はない。これを知らずに、偽物で頑張ってどうしますか。偽物を静かにさせるのが瞑想である。だから、いつも言うように、静かなことは、成熟した魂たちにとっては心地良いことであるから、その心地よい静けさにただすべてを委ねていればよいのである。このどこが方法であろうか。神は、難しいことを我々に課していない。マインドが難しくさせているのである。それは自我が自身の死を恐れるがゆえである。死が復活であるということが分からぬのである。我々の前途は、栄光のみである。生老病死と仏教徒は言うが、それは錯覚の世界の話であり、夢のようなものである。いつ夢から覚醒するのか。それは夢が苦痛になったときのみである。この世という夢が耐え難いものになり、一切皆苦であることを理解するようになったとき、本物へしか向かわなくなるだろう。それは私がそうだったように、瞑想を通して日に一二時間ですむものである。皆が助かってほしいし、皆が助かるまで本当の完成ではない。しかし、今のところ、このような話を聞いてくれる人、そして瞑想という自己実践へと向かう人は限られている。したがって今のところ、真我を見出すのは彼らだけである。

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