- あなたの文章は瞑想することや瞑想の理論めいた用語を並べたり解説したりしているだけで、実際の瞑想がどのようなものか、つまり私が瞑想を始めてつまづいている箇所、どのような瞑想が正しく、また間違いなのか、一体何から始め、何をしていれば間違いないのか、そのあたりについて言及がなく、読んでいて私には意味がないと感じざるを得ないというのが率直な感想です。あなたが瞑想のやり方を書かないのはなぜなのか、非常に疑問に思います。
私も瞑想に方法があると思っていた時期がある。それによって行われた瞑想は、ただの自我瞑想だった。これは瞑想とは関係のないものである。自我つまり低位我は瞑想できない。瞑想を妨害することしかできない。瞑想しているのは、実際は高位我である。だから高位我と接触し、高位我の意識を知ることが瞑想である。低位我は高位我への服従を通して、そのような意識に参入するのである。
- つまり、あなたは自我瞑想を通して間違いを認識したのなら、その自我瞑想が高位我を結局は認識させた方法であり、自我意識の時期に行うべき瞑想だったのではないでしょうか。
ある意味では。つまりあらゆる間違いはより正しいものを認識させる。だからといって間違った瞑想から始めることは愚かなことである。例えば、一日に頑張って五時間ほど瞑想していた時期がある。瞑想に熟達すればするほど、長時間、瞑想できるようになるべきだと考えていたのかもしれない。しかし、質の悪い長時間瞑想は、高位の意識へ入りづらくするだけだった。それよりも、日常生活で正しくしっかり義務を果たし、一日に一回か二回、一時間ずつ瞑想する方が成功し易いことは明らかだった。つまり、日常では徹底して善に生き、正しく生きることだけに邁進し、すべきことをしっかりしてから、就寝前や起床後など、短く瞑想することで、私は瞑想から瞑想を学んできた。誰かに学びに行くことはなく、誰かの教えに従うこともなく、自身の瞑想から瞑想をその瞬間瞬間に学んだだけである。
- 私は瞑想していても高位我を認識することがありません。
あなたは、あなたが認識の邪魔をしていることを理解しなければならない。高位我を認識できないという問題は、低位我の問題である。それは無視にしか値しない。低位我の問題に注目を向けることで、あなたは高位我の認識をあえて妨げているのである。ここに気づかないといけない。
- では、私は高位我を認識できないことで葛藤があります。しかし、この葛藤に対し、私は無視できません。他の人にはできて、私にはできないことが不安であり苦しみであると感じます。それで幾度となく瞑想なんか止めてしまおう、自分には向いていないと思いましたが、他の教えに答えがあるともやはり思えず、しばらくしては瞑想に戻り、また失敗しては瞑想から離れる、などを繰り返しているのです。
そのような繰り返しは普通のことであり、何も問題ではない。なぜなら、やがて瞑想から収穫するものを感じるようになり、瞑想から離れること、つまり自我意識で生きることはできないと感じるようになるからである。初心者の問題は、常に急ぎすぎることである。自我は急ぐ。自我は時間でものごとを考えるから葛藤する。自我は理想という夢想や観念を本物のように思うから達成していないと感じ葛藤する。だから、私がさんざん自我で瞑想してきたように、何かしら自我はやるだろう。現在点ではなく、どこかよそに、自分とは何か別のものを探すだろう。しかし自我には寿命がある。老いた自我つまり老いた魂は、人間の老人と同じで、経験を積み、過ちを知り、愚かさを学び、おのれ自体にそろそろ疲れ果て、パワーがなくなっている。暴れることをしなくなり、静かにしていた方がいいと力なく感じ、反抗は諦めへと席を譲る。このようなとき、高位我が突然、その静けさに燦然と姿を現すのである。それは最初から在ったが、気づかれなかっただけである。ちょうど人々が仕事帰りに疲れて橋を渡っているとき、暮れ方の太陽の美しさ、水面に映える光の輝きに癒やしを覚えるように、常にあった太陽を我が内に認識するのである。
- では葛藤しながら、私は瞑想を頑張り続けるしか道はないのでしょう。
やがて、葛藤しなくてよかったことが分かるだろう。眠るとき、あなたの葛藤は忘れられ、眠気を優先し、眠気に服従するはずである。そして眠りの心地よさが、あなたの葛藤を意識の埒外へと追い払う。これに似ている。瞑想に慣れてくると、低位我の問題よりも、高位我の心地よさが優先されるのである。そのため、魂の意識に入ってさえいれば、何の問題もないのである。あなたがいくら葛藤していようが、葛藤を感じることはできなくなる。存在するのは魂の平安、静けさ、美しさ、喜びである。これがやがて習慣になり、低位我は高位我に黙従することが趣味になる。これは、頑張る道とは真逆の道であり、眠りのように、全く頑張らない道、すべてを明け渡す道である。
- そのような力が訪れてほしいものです。
そのような願望が瞑想を続けさせ、結局は魂を認識させ、高位の力を伝導するようにさせる。このようなメカニズムを発達させるためには少々の時間がかかる。あなたが30分でも瞑想するなら、一秒ぐらいは、ほんの少しでも、良い意識に上昇したことを認識するだろう。これが証拠である。そしてその瞬間の態度がヒントである。だから瞑想中の意識の変化を見守り、自身の態度と意識の変化を結びつけ、抵抗ではなく脱力を、他の場所ではなく今そのままのあなたで在ること、無為自然を身につけねばならない。こうして、あなたはあなたではなくなり、眠りのように心地よい自然の力が押し寄せて、我と我が身を包み込み、あなたは真我に没し去るのである。
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