古い映画、古い映像が流れていた。古い時代の話であり、何もかもが今とは違っていた。しかし、太陽はあった。この映画は太陽を素通りしている。映画が追っているのは物語であって、背後の太陽ではない。太陽の存在は当たり前であり、太陽の恩恵や、太陽の存在について誰も考えることはなかった。現代人もまた太陽に生かされながら、太陽は風景の一部でしかない。どのような時代、文化、生物、風潮、展開が地上で織りなされていようが、背後に太陽は在る。遠い昔にあった太陽と、いま昇っている太陽は同じである。未来もまた同様である。太陽なしには誰も生きられない。何も育たず、実らず、暗いままである。
内なる太陽が存在している。誰の内であれ、この太陽は変わらず在る。目に見える世界が何を表現していようが、内在の太陽は輝いている。意気消沈するような出来事があったとき、人は太陽に敏感になる。それがまぶしくないかぎり、朝日や夕日である限り、その美しさや厳かさに心を奪われる。現象世界で打ちのめされたとき、人はこうして謙虚になりうる。自身の無力を再確認しうる。そして変わらず輝く太陽の偉大さに目を奪われることが可能になる。視点を改めるべきなのである。世の騒擾は、太陽に何の影響も与えない。一方で、太陽の影響なしには誰も生きられない。外の太陽は内の太陽の象徴である。永遠と呼んで然るべき光輝が誰の内にも常に在り、素通りしないかぎり、視点を内にとどめ置くかぎり、それは我らが意識のうちに姿を現し続ける。それそのものが真我である。いかに言葉が無力でも、肉体ではなく、それが真の我々である。
変化するもの、滅びゆくもの、これら幻影ではなく、これら夢まぼろしに息吹をもたらす命の太陽に目を向けねばならない。映画も、登場人物も、あるいは現代人も、自分の物語を生きており、太陽に気づいていない。想念を見ており、背後の命に気づいていない。我々の肉体が死のうが、あるいは何万回と生まれ変わろうが、舞台の背後に太陽は在るだろう。どんな物語や運命であろうが、それを照らしているのは太陽だろう。見えないときは闇夜や嵐かもしれないが、単に見えないだけである。我々は何十年と瞑想しても、実在が見えないと言う。視点の問題である。何に同一化し、つまり何に執着し、その結果としてどのレベルの波動に生き、どの物語を追っているかの違いである。分からなくなった人、混乱した生き方をしている人を癒やし正すもの、その愛は瞑想によって与えられる。気づかずとも、それは与えられている。しかし、我々は受け取りを拒否しているのである。物語の中で手放せないもの、執着しているもののほうが気がかりなのである。しかしそれらは死によって奪われるだろう。
すべての問題はこのような抵抗にある。抵抗が調和に変わるとき、我々は太陽になる。我々に抵抗させる無知が、内なる光、内なる知恵によって照らされるとき、内なる力が作用を開始し、我々は従順になる。迷っていた者は賢き者になる。いずれのフォースもエネルギーに従うようになる。人は自らが抵抗していたことを理解し、抵抗する必要がないことに驚く。つまり、何もしなくていい。すべきことはないのである。我々が物語に生きるなら、することはあるだろう。フォースに動かされるなら、好き嫌いや価値観に応じてどうにかしようとするだろう。何かを変えようとする生き方になるだろう。ここに視点を向け続けていても無駄である。どんな物語の背景にも太陽がある。どんな現象、どんな結果の背後にも原因がある。つきつめれば、なにもかも一つである。分割するのは想念であって、この無知を知り、そもそも在る力に瞑想で感応できるようになり、その唯一なるエネルギーにすべてを委ねるならば、地上の地獄は即時に天国となる。
我々が見ているのは想念である。瞑想とは、想念を瞑ることである。これを間違って解釈すると、人は自力で雑念を振り払おうとする。つまり、それは自分の物語である。雑念があろうが、それを集中に置き換えようと努力しようが、そんな騒擾とは関係なしに、背後に太陽は輝いている。どんな抵抗の背後にも太陽はある。だから想念ではなく実在である。見たいものではなく、目の前の実在である。人間は、全て想念を通して解釈へと落とし込むことで安心する。分からないことは怖いことである。こういう生き方は間違っている。だから、黙って目を瞑ることである。気がかかりなことがあるだろうが、それは真我において何の関係もないことである。内から助けが必ず来る。この方だけが一なる救い主であり、人間の全ての重荷をなくす方である。多くの人が努力するのは、無知だからである。自分だからである。自我で生きているからである。この抵抗を無視してもらいたい。この動きは、どうでもいい。諸体のフォースは、――それが情緒であれ想念であれ――同一化せず、離れて見られるとき、その純粋な気づきにおいて力を失うものである。真の力つまり原理は、内在の太陽である。物語の背後に太陽があるのであって、物語の中ではない。我々は外の太陽を見ることはできるが、内なる闇に昇る太陽だけが重要なのである。なぜなら、この光こそが全てを解決するから。どうすればいいのか。そう言った瞬間に自分の物語に視点を向けることになる。どんな想念や情緒とも関わらないことである。何かをしようとするなら、それは自分の物語である。その背後に太陽があることを忘れてはならない。焦点化すべきは物語ではなく、あくまで太陽である。