失われた我を求めて

瞑想の一般的な構図は、想念と、それを抑えようとする瞑想者である。一刀両断するならば、彼自身がすでに想念なのである。言い換えると、「考えられるもの」と「考える者」は、ともに想念である。その背後に純粋な意識が在る。これを魂と言うならば、魂は無関心に観照しているが、想念は、肉体人間を自分と考え、また瞑想者だと考え、瞑想する自分がすべきことは想念を抑制し内側に集中することだ、と考えるのだが、この一連の流れはすべて想念ではなかろうか。

然り、私とは想念である。これをどうにかしようとしてはならない。どうにかしようとする者も、されるとみなされる対象も、同じ想念であり、同じもの同士が互いを打ち消し合うことはできない。

その背後に存在の感覚がないだろうか。我々は存在している。であるからには、「存在する」という感覚はあるはずだ。それは何も特別なことではない。「私は存在する」を見つけようとする前に、我々は存在している感覚がある。通常の「I AM」は自我意識を指し、肉体人間に自身の存在を感じさせるものである。しかし、「I AM」は肉体に限定されたものであろうか。「肉体として私は在る」と考えるのは想念であって、マインドのフィルターを通さなければ、「I AM」は無限定ではなかろうか。また、「I AM」はそれ自体に安らいではいないだろうか。言い換えると、「あるがまま」は、「あるがままであること」で至福なのではなかろうか。この全体像の中で余計なものは、想念だけである。

私と想念がともに想念であり、互いを打ち消し合う能力を持たない性質のものならば、この私という領域には関わってはならないに違いない。背後の真我からすれば、無関係なものに違いない。我々が注目の焦点とすべきは、この背後の存在であり、それは「私は在る」と関係している。存在の感覚は思考とは無関係である。思考があっても、思考が停止しても、それは存在している。この存在とただ共に在るとき、我々はマインドを超えて、マインドとは無関係に、あるがままの存在ではなかろうか。それは、いかなる「する」にも属していない。

「する」の前には、「する必要性」がある。水を飲む前に喉が渇くように。「在る」に関しては、それ以前であれその最中であれその後であれ、在るための条件も必要性もない。ただ在る。この、必要性や条件から自由な存在、別の何かに制限を受けない存在、つまり常に、永遠に、自由である存在、このことを、我々は真の自己と呼ぶのではないのか。肉体的な自身から焦点をずらし、注目すべきはこの存在性ではないのか。言い換えると、その性質上努力という前提がなく、ただそれで在ること、それに安らいでいる状態、それに喜び、「私は個人である」という思想から解放されて際限なき領域に無限に拡大されること、ゆえに愛溢れること、また領域なる概念も含めたすべての既知と想念から自由で無関係であること、知識にすら縛られず何も知らないこと、この唯一なる無の有こそが私なのではなかろうか。最初から満たされ、満たすための条件もいらない、存在の条件も理由もいらない、天からの贈り物のような私ではなかろうか。

それは目覚めた眠りのようなものである。永遠に輝く沈黙である。とこしえの平和、とこしえの至福である。それは肉体人間が考える「私は在る」と関係しているが、彼の私が想念であることに想念である彼が気づかぬかぎり、想念が付着することのない純粋な「私は在る」は感じられないだろう。真我であれ、あるがままであれ、魂であれ、それらの言葉は虚しき概念であり、追い求める価値もなければ、追い求められる性質のものでもない。マインドが静かなとき、個人的な私は存在せず、マインドに蓄積されたもの、マインドが見せてきたもの、これらの閉じ込める枠組みの一切から自由な、拡大された私がただそこに在るだろう。それは無限にして永遠であるだろう。ゆえに、我々は至福であるだろう。どのような恐怖も心配事もそこにはないだろう。ここが天国である。肉体人間が時空間内にてどこにいようとも、そこが天国ではなかろうか。

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