奉仕できるから生きていられる

人間を含めて生物とは、すべて、奉仕するから生きていられるのである。「奉仕するために生きる」ではなく、「奉仕できるから生きていられる」という、この意味の違いを識別すべきである。人間に限らず生命自体を我々が知るとき、生命エネルギーというものが、例外なく、善や正しさと呼ばれるものへ究極的には向かっており、奉仕が「生きがい」であり、奉仕だけが表現体を生かしておける理由であることを悟ることになる。

奉仕とは、一体性が前提にあって初めて可能となるものであり、それは多様な顕現の世界にあっては、互いに愛し合うことである。男女の愛や親子の愛はアストラル的な偽の愛でしかない。偽物ではない愛は、すべての源が私であり、ゆえにすべてが一体であることを知っている統合体(表現媒体)を通して働く一体性の顕現ないしは必然である。離れたものを結びつけ、絡まったものを解きほぐし、乱れたものを調和させる意志のエネルギーとは愛のエネルギーである。愛なき力は意味なき破壊しか生まず、愛を乗せた意志は古き形態を破壊するがその理由はより善きものを建設するためである。

迷った個我は「奉仕しなければ」と言う。奉仕するから生きていられることを知らないのである。あるいは、奉仕の意味を、辞書的にしか理解していないのである。この場合、「自分にどのような奉仕ができるのか」という疑問にぶつかることになるだろう。奉仕は必ずしも行為ではない。私は、一言でいえば、神のことを奉仕と言っている。神由来のエネルギーの意欲のことを愛と言っている。「神の意志は愛である」が現在の太陽系の教えである。それは、どう生きようかと個人が思うのと真逆で、奉仕できるから生かされていることを学ぶということである。神に生きるとは、一体性の境地から、愛ゆえに愛を表現できることを喜ぶことである。これだけが幸福を意味する。分離した自分や個人の幸福という文章自体が論理的に破綻していることを理解できる者だけが、神の愛を、実際に味わうことが可能になるだろう。

今日もまた、「小中学校の自殺が過去最高を記録」というニュースを目にした。大人の自殺も子供の自殺もともに我々の切実な苦しみである。それは情緒的感傷的な苦しみではなく、霊的つまりエネルギー的な意味での不調和、すなわち調和より調和を乱す力の方がこの結果の世界の背後の原因の世界で勝っていることによる全体における不調和の苦しみである。そしてまた、「終末時計の残りが過去最短を記録」という幼稚なニュースも見た。しかし我々は、終末へと向かう乱れた力を整え、平和と調和と愛し合いを可能にさせる力の表現媒体に宿り生きている。我々が神のエネルギーつまり生命に生きるとき、それが愛し合いであり、神の愛と意志の表現が奉仕である。

大なり小なり、善や正しさへと向かう奉仕の力に感応していない限り、はっきりした言い方をすると、我々は不要な形態存在であり、その場合はしばしば死が選択される。高齢で仕事を引退し現役から退いた者が急に老け込み呆気なく死ぬのを我々はよく見せられるが、この背後にある意味を考えるものはほとんどいない。若くして現役から退く者はあまりいないゆえ、高齢で死んだとでも思われている。どのような力が死を決定づけたか、つまり「不要」とみなしたかの、奉仕的な観点、つまり生命的な観点からの、死の決定論について理解する者はほとんどいない。逆に理解する者の生とは、そのまま生命的な観点であり、それは奉仕的な観点であり、奉仕できるからこそ形態を通して生きていられるという、愛と善の表現の喜びと意義を知る生き方である。一体の中で、すべてが何かに貢献し、奉仕できるがゆえに、一体が生きている。健康食で長生きしたり美しく生きられるのではない。神のエネルギーつまり何らかの奉仕に生きるがゆえ、形態は生かされているのである。老け込むとは、神のエネルギーつまり若さの撤退である。神の生き方への逆行が、老化や醜さや病気の進行である。形態は何ゆえに生かされているのか。これを真に考える者は人類の中にどれだけいるであろうか。私はひどく重要な話をしているはずである。

分離した自我に生きるとき、テーマは「どう生きるか」であり、それは自我を輝かせることであるため「何を自分が達成するか」や「何で空虚な己を満たすか」がテーマになる。これが霊的学校の生徒であったならば、怒られるというより、みんなで悲しまれるだろう。自分のために何を成し遂げようと、その生徒は落第になる。結果、死が宿命であり、死と再生誕という錯覚の世界で再び学び直さねばならなくなるだろう。一方で、なぜ生きるのかと問われたとき、その形態に限って言うならば、奉仕できるから生きていられると、法則から語ることのできる者は、霊的学校では小1から小2に進級するだろう。この世という一時的な育児施設に戻されること、意識において錯覚へと落第を余儀なくさせられることもないだろう。

形態の生の秘密とは、奉仕の理解にかかっている。「奉仕=生命」から外れた生命に生きるとき、言い換えれば、霊的エネルギーではなく三界のフォースに条件づけられるとき、我々は自滅によって破壊や不幸や死に向かうのである。何が法則であるかを識別し、自らを霊つまり神のエネルギー生命の伝導体として明け渡し生きるとき、法則内で調和した状態で愛に喜び生きることが可能になり、これが担当している形態を物質から霊へと引き上げさせるのである。普通の者は、その生涯で担当した諸体を通った後の条件づけられたフォースに無自覚に動かされているだけの状態にある。これを無知とか、生きながらの死とか、眠ったままの生とか呼ぶのである。一方で覚醒とは、担当する諸体が自分であるという錯覚から自由であることによって、意識的に物質の霊化に携わること、形態ではなく生命に生きること、生命の力と意志に一体化し、一つの命一つの全体として神の純粋目的に生きれること、すなわち奉仕に生きれる幸せに目醒めた者のことであり、ゆえにこれを悟る者は尽きせぬ至福を知る。「何の奉仕をしようか」ではなく「奉仕できるから生きていられる」という喜びに、誰が、いつ目覚めるであろうか。この意味が分からなければ、我々は決して自由になれないゆえ、真剣に、何年かけてでもこれを理解してほしいと切に願う。

たとえば私は犬好きだった。犬を可愛がるときは私も嬉しかった。犬が喜ぶときは私も喜んだ。あるいは道端の花をそっと撫でる瞬間、身体の数十倍もの大樹を抱いて木の香りに包まれる瞬間、このようなときも等しく共に喜んだ。無私、つまり私利私欲からではなく、人間で言えば自分ではなく相手や対象のためだけに何かをするとき、あるいはしたいとき、そこには愛と奉仕の痕跡がある。人間の場合はしばしば行為になるだろうが、瞑想に入る者は必ずしも行為で奉仕する必要はない。なぜならエネルギーと生命の世界に入るため、自身の行為は去り、大いなる一者に溶け込むからである。だからといって、それまでの奉仕は常に行為だと言いたいわけではない。悪を目の前にして無害であることは奉仕の芽生えである。自身の内部の悪と交わることなく、自身の内部の良心の源に目と意識を向け直すことも奉仕の芽生えであり神性への接近である。するとやがて理解するだろう。己を肉体として生きてきた者ですら、その肉体人間が生かされているのは、奉仕できるからであると。神の意志と奉仕が同義語であると。神の生命の表現が愛し合うことであると。これは、我々が根源において一つであるからである。その根源から、我々は喜びや素晴らしさや美しさに包まれ生きれるようになるのである。

逆に、他人を害する者を見てもらいたい。自分のために誰かから盗んだり、暴行したり、いじめたり、利用したり、あるいは心から恨んだり、嫉妬したり、敵愾心を燃やしたり、不幸に陥れてやりたいと願ったり……このような生き方をしている者で神の至福を味わった者はいるだろうか。これらの者の末路が美しかったためしがあるだろうか。この愚か者たちは、相手と自分が文字通り同一であることにすら気づいていないからそのようなことができるのである。苦しくてもそういうことをするのである。これらは、通常の者であれば、胸糞悪い感覚を覚える。なぜなのか。一体だからである。形態が分離しているから自分と他人がいると人は錯覚しているが、形態の背後の命が、つまり我が理解できるなら、全部我ではないのか。見ている者と、その見られている対象は、共に我とその意識の中に包含されるものでしかない。根源はそのまま私であり、見ている世界、見せられている世界の分離は、マインドの解釈つまりイリュージョンなのである。ここに早めに気づくことの何と大切なことか。

「今日は何をしようか」と人は言う。もちろん娯楽を否定はしないが、少なくとも仕事をしてからの娯楽ではないだろうか。仕事とは、生活のための義務の仕事のことを言いたいわけではない。我々の雇用主は会社の社長ではなく神である。真我=神に由来する意志と愛、あるいはアートマとブッディにマナスを通して生きずして、どうして生きていられるであろうか。簡単な話で、生命は生命の表現があり、生命が生命の意図するものではないものを表現させられるとき、不幸が訪れるのである。いつまでもこれを学べぬと判断されたとき、破壊と死が適用の対象となるのである。もし、「今日は何をしようか」と言うならば、それは個人に生きている。我々は今すぐ完全に神の生命を表現できぬゆえ、瞑想を通して本物を学び、少しずつ生活の中で本物を識別し始め、どう生きるかではなく、どう在るかというテーマに着手し始める。なぜなら、生命自体はすでに存在しているからである。その表現を間違っていただけであり、間違ったものと同一化していただけであり、すべてはおのが無知によるものであると結論づけられ、無知からではなく、理解された神のハートから、法則に沿った正しい調和表現を愛するようになるだろう。

個人に生きるときだけ、「愛される」ことを重視する。それは偽の愛であるゆえ、永遠に満たされない。永遠に喧嘩と仲直り、離婚と結婚を繰り返し、あまり学ぶことなく形態の死を迎えるだろう。一方で、瞑想と奉仕を通して生命自体に到達するならば、愛されることではなく、「愛すること」に強烈な喜びを知るだろう。そのとき、仮に攻撃されたとしても、その者を愛すること、愛せること、愛で在ることに喜ぶだろう。この錯覚の世界で共に学んだ者の一人は、前にも書いたが、スーパーの中で愛の意識に入ったと言った。通り過ぎる人すべてが実際には微笑んでいるわけではないがそう感じられ、ほとんどその無時間の領域において、惣菜すら美しく輝かしく、愛として一体であったと表現したものである。この者は、あまり私の話を信じていなかったが、もう自ら神秘体験したがゆえ、それを否定することは二度とできないのである。自分でありながら自分ではないその意識でずっといられるなら、どれほど素晴らしいことかと思うが、二度と体験できないのが悲しいと、その後に言っていた。瞑想を続けるならば、必ずまた入れます。帰れます。一体つまり真我を味わいます。その秘訣はたった一つであり、分離に生きぬことである。生きていられるのは、一体として、愛として、神として、奉仕できるからであるという生命の事実に目覚めることである。このようにしてのみ、人類のすべての人間は、自殺ではなく、生きることができる。

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