ある肉体に与えられた特定の名前がある。この肉体や名前を私とみなしている私とは思考である。この意味において、思考と思考者(私)は同じである。しかし、その背後に隠れた私が在る。これが真我である。隠れても秘められてもいないのだが、思考者としての私が、その私を前提とした思考に対し、次々と同一化するため、気づく暇がないのである。イニシエートが「思考と思考の隙間にそれは在る」と言ったのはこの意味である。同一化とは、思考でしかない方の私が、その私から始まる種々雑多な思考に対し、「私の考え」とか「私の思い」などと見なす動きのことである。これは人間活動においては自動的なものになっている。そこで、瞑想という手段を通して思考をコントロールし、そうすることで真我を見出そうという動きがある。これは初心者がひっかかるよくある間違いである。すでに真我であること、思考とは関係も同一化もしていない方の私を見ようとはせず、思考の方の私で何事も考え何事も目指し何事も修練しようとする。こうやって偽の私を演じ養い続ける。真我は、これらの動きがどうであれ、存在しない錯覚とは一切関わっていない。
- しかし、私が自我意識である以上、「思考と思考の隙間のそれ」に気づくためには瞑想しなければならない。とはいえ、何十年も瞑想しているが真我は見つからないのだ。
すでに真我だが、その上に思考である私によって意識が上書きされている。
- その思考を制御し、集中することが瞑想だと教えられている。これが間違いだとは思えない。
思考でしかない私で瞑想や集中をしようとしている。内なるあなたはすでに瞑想状態であり、集中状態である。思考でしかないあなただけが、その思考によって騒音状態にある。
- 思考は次々と現れるため、私の騒音はどうしようもない。
何の問題もない。それをどうにかしようと勝手に騒いでいるのは、思考の方のあなたである。
- ほったらかしにするわけにはいかない。思考を制御できないことが一番の問題だ。
と、思考が言わせていることに気づくべきである。その思考とあなたである魂が同一化することで、個人の意識が前面に出てきている。あなたが正しい瞑想に習熟するにつれ、意識内にて、思考の方の私よりも魂の方が優勢になり始める。魂が思考を平定するのであって、思考であるあなたではない。
- では、内なる魂が意識の前面に出るような正しい瞑想とは何だろうか。
思考による私で何かをすることが瞑想ではないことに気づいていることが正しい瞑想である。初心者はこれを知らないため、ずっと思考の方の私で努力している。いつも何かに到達しようとしている。何かを期待している。現在ではなく未来に興味を持っている。真我ではなく思考を見ている。
- 理論的にあなたの言うことは理解できたが、私の思考が止まらないのは事実のままだ。
止めようとしないことである。問題視しないことである。思考を止めようとする時に使う力(フォース)と関わってはいけない。それを育てることになる。識別力である。真我という力が歪曲されるとき、その力は個人の意図に使用される。あなたという総体は、この歪曲された力であるフォースの集合体であり、これは魂のエネルギーによって消し去られなければならない。よく融合と言うが、実際は、融合とは融合する対象が存在していないことを知ることである。すでに私は真我である。これが驚くべき事実である。
- もし思考を止めようとする試みを放棄するなら、思考だらけになると思うが。
それもまた問題ない。問題だと言わせるのは自我の策略であり、それは偽の自分を延命させるための自作自演である。どれだけ思考が生まれようと、あなたが思考の方のあなたであることを拒否し、つまり生じる思考との同一化を拒否し、ただそれに気づいているだけで何もしないなら、思考は発展せず、すぐに立ち消えとなり、したがって関係ないという話になる。
- あなたが言うように簡単であればいいのだが、私には難しく感じられる。
と、あなたが自作自演のモードに入ろうとしていることに気づき、その気づく力で自我に戻ることを阻止するべきである。一々、その人の側に回ってその人を演じる必要はない。難しいという葛藤や情緒が現れるなら、それもまた見て気づいて終わりである。発展させないことが重要である。そのうち発展するものがなくて自我は弱くなる。
- そうやっていると思考に終わりが来るのだろうか。
あなたが思考の終わりを期待して、思考が終わるために思考を見るのなら、何の意味もない。すべてがそのままで良いことを知らねばならない。あなたは、ずっと何かになろうとし、別の状態を模索している。その態度を維持するかぎり、すでに真我であり、現在であるものは、見られないままである。あなたが「方法」を採用するとき、それはあなたの個人的な動機のもとに進められることになり、逆に自我は強くなるだけである。したがって、理論よりも、感じられる力、その個人のフォースをただ見ることである。見たら消えることを知るだろう。見るときは、眉間から思考を使わずただ見るだけでいい。
- 額に来るこのエネルギーを使うということだろうか。
すでに額に魂のエネルギーを感じている場合、そのエネルギーが正しいエネルギーであり、それまでのあなたのエネルギーが間違いであることを肝に銘じるべきである。やがて魂そのものと接触するようになり、次にあなたが魂そのものになり、そうすることで生命つまり真我が理解されるのである。
自身を表現させるフォースと、上からの高位のエネルギーをたえず識別し、たえず後者のエネルギーに同一化し、そうすることで後者のエネルギーから生きるならば、あなたの中から一切の個人的なものは消え失せる。今までは個人的な目標として瞑想してきただろうが、あなたは自分が何者であるかを知り、個人は去り、一なる至福に超然となる。それはなにものとも関わらないが、すべてと一体である。これが「孤立した統一」であり、瞑想者が知ることになる次の意識である。
この意識の象徴は、人間でいえば死である。子供の老衰である。今のあなたは若者であり、自我の目的に元気である。その元気の源である力は個人のために誤用されている最中であるが、それがあなたに経験を積ませ、知恵を育ませる。やがて熟し、個人として表現される力も元気も弱くなる。人生でやることはやったのである。学び終えた自我は衰弱する。肉体年齢に関わりなく、その個人とは関係性を失い、真我に没頭するようになる。世間からは誤解されるかもしれないが、そのとき、あなたは世間や世界から何の影響も受けない。神と真我が影響力になる。個人の目的が去ったあと、真の目的が徐々に明らかにされる。風景だった太陽、もの言わず遠くからあなたを照らしていた太陽が意味を持ち始める。あなたは融合によって愛を知り、喜びを知り、至福を知ったが、生命、力、意志について学ぶのはこれからだと感じる。そのとき、愛や喜びは、命とエネルギーと目的の表現手段になる。