実在は非実在の出現を可能にし、それを消滅させる。はかない瞬間の連続が時間という幻想をつくり出すのだ。しかし、純粋な存在の永遠の実在性は、運動のなかにはない。なぜなら、すべての運動には不動の背景が要求されるからだ。それはそれ自体、背景なのだ。ひとたびあなたのなかでそれを見つけたならば、すべての区別と分離から独立したその存在を失ったことはけっしてなかったと知るだろう。しかし、それを意識の中に探してはいけない。そこに見出すことはないだろう。どこを探してもいけない。なぜなら、何もそれを含むことはできないからだ。その反対に、それがすべてを含み、すべてを現すのだ。それは、それ自体では不可視でありながら、すべてを可視にする日の光のようなものだ。
ニサルガダッタ・マハラジ「I AM THAT」p.427
「探す」とはマインドの活動だ。マインドが統御されたとき、そこには何も起こらない。山を難渋して乗り越えるのではなく、山がひとりでに平らになるようなものだ。純粋意識はそのまま山というイリュージョンを透過する。その後の世界を仏教徒は「無」と呼ぶが、それは既知の無であり終焉であって、言い換えれば真我の顕現である。それは明らかにわたしだ。それだけがまさにわたしだ。この存在自体の領域にあって、すべきことは何もなく、する者も存在しない。存在するのは存在のみである。
通常の人――脳意識の言う「わたし」はただの想念だ。それはマインドの産物であり、概念でしかない。上からの日の光でマインドの忙しなさが溶かされ純粋化されたならば、最初からわたしであったわたしが知られるであろう。マインドのわたしとは無関係のわたしである。それはいまわたしであるが、その上に、我々は概念のわたしを重ね、感覚知覚と共に、そちらばかりを眺めている。そして、その偽のわたしが主体化しており、ゆえに純粋なるものはすべて歪められ、そこがカルマを作り出す温床となっている。
カルマは、偽のわたしと関係しているだけだ。マインドの背後のわたしを見出したならば、その意識領域にカルマはない。ゆえに、パーソナリティーにたとえ不幸が訪れようとも、その高所に入り浸ることができさえすれば、被害を被ることはないだろう。人間は現在のところ被害者であり、何による被害者であるかすら理解せぬまま、ほとんど無意識的に、条件づけるものに条件づけられたまま生きている。弟子は条件づけるものを上から統御することを学ぶ。結果ではなくこのようにして原因を直に扱うようになるのである。エネルギーによってフォースを扱うのであり、霊によって物質の質料を統御するのである。
たとえば苛ついたとしよう。弟子はその苛つきに対して無関心である。苛つき自体という結果はどうでもよく、その感覚を可能にしているフォースを見る。質料とフォースはほとんど同義語である。フォースは粗粗しく物質的であり、その物質質料はただ見る、ただ気づくという、聖なる無関心の高みから照射される魂の目と注目とエネルギーによって即座に統御される。普通の人は苛つきに対処しようとするが、見習いの秘教徒は苛つきを可能にさせている背後のフォースに働きかける。この違いについて熟考すべきである。人生が一変するはずである。
「背後」を見るための条件はあるか。無抵抗を最初に挙げたい。通常の人間の場合、苛つきがあるならば、それをどうにかしようと抵抗する。弟子は何もしない。苛つきがあるならそうあらしめればいいという無関係状態に意識はある。したがって、感覚知覚との切り離しが可能になっており、押し寄せる高位の至福の波で、些細で些末なアストラル的なざわめきは飲み込まれ浄化される。このように、アストラル界のフォースに関しては、主観から客観への向きで統御可能であるが、メンタル体のフォースつまり想念のようなものには、客観に向かってきた主観を、主観自体に向け直すという逆転現象が起きねばならない。そこにサンクチュアリが存在している。そして、それは探す類いのものではない。それはすでにここに在る。主観はすでにここに在る。
今回はニサルガダッタ・マハラジの本から引用したが、適当に開いた箇所を少し読んでみて、思うことがあった。つまり、質問者がうるさすぎる。大変よくしゃべる。初期段階の熱誠によって必死なのは分かるが、しかし必死なのは自我である。その背後が真我であるのに、自我を強調してどうするのだろうか。また、頼りすぎである。わたしがいくぶん発達の速度がはやかったとして、その原因は独学にあった。いかなる外的な師ももたず、求めず、誰にも質問したこともなく、すべて我が内から答えを引き出してきた。このようにすることで、頭の背後の知性に接近するようになったのである。しかし書物の質問者たちは、頭に生きており、頭で理解しようとしている。それ自体が不可能なことなのだ。頭は、次元の異なるものを認識できる器官ではない。
自我のうるささは、その者のラジャスが未浄化であることを示している。ぜひとも霊的な落ち着きが必要である。考えすぎてもどうにもならず、霊的には悪影響しかない。だから静かにする習慣をもっと尊ぶべきである。探すのではなく、ただ在る。そこに何が必要であろうか。静かにしていることは心地よいことではないだろうか。少なくとも、わずかなりとも心地よさを感じるはずである。その感覚を追いかけるといいだろう。その心地よさがなにゆえであるのかを見るのである。どこから静謐の愉楽はやってくるのか。わたし自体である。これがもし分かったならば、何もしなくてよかったという境地に到達したことになる。私は在る。それだけで十分になる。というよりも、それ以外が苦痛になる。より純粋なものを知った後、より純粋でないものはもはや耐え難いものになるのである。このようにして、人は儚き自我ではなく、永遠なる真我を愛するようになる。
