学びと愛は万人のもの

「私は互いに対立する勢力の中間に立っている。私は調和と平和を切望し、統一から生じる美を熱望している。私は二つのものを見る。私には、相対立する勢力と、中心にある円の中に立つ私である唯一なる者以外には何も見えない。私は平和を要求する。私のマインドはそれに夢中である。すべてのものと一つになるよう私は努めているが、形態は分割する。至るところに戦争と分離が見える。私は一人で立っており、一人である。私は知りすぎている」

言葉が魂から形態へと発せられる。「両勢力は一つである。戦争、相違、孤立はない。あなたの立っているところからは、敵対し合う勢力が戦っているように見えるであろう。一歩前進しなさい。内的ヴィジョンの開いた目で真実を見なさい。そうすることで、二つではなく一つであることに気づくであろう。戦争ではなく平和であることに。孤立ではなく、中心で休むハートであることに。かくして、主の美が光り輝く。その時は今である」と。

アリス・ベイリー 秘教心理学第二巻(上)p.433

これは人類と密接に関係する第四光線に関するものであり、最初の引用は、目が開かれつつある熱誠家の独白であり、次の引用はそのような個人に対する魂の沈黙の声である。したがって重要なのは二つ目の引用である。

「両勢力」とはエネルギーとフォースであり、その現象的な顕現が「戦争、相違、孤立」であり、私たちはエネルギーとフォースの世界に住んでいるが、実際はその背後の一なる(霊的な意味で)孤立した存在である。私たちの結果の世界があり、その背後の原因の世界があり、それらを統べるさらに背後の存在の世界があり、最後の領域でのみ一つである世界つまり調和と平和が実現されている。それは沈黙の領域であり、神の美と愛が支配する天の王国である。

人々の苦悩は分かる。どうすればいいか分からない気持ちも理解できる。しかし、そのような「自分に生きること」や「自分の声に耳を傾ける」という弱さから脱却しなければならない。自分ではなく、他人のためでもなく、自他一体の平和のレベルから奉仕に生きぬかぎり、私たちの苦しみや悲しみや悩みや辛さからは自由になれないのである。自分を無視したとき、その無私に魂が降りることが可能になる。これは見習いの道での目標であり、現在少ないながらもこのような話を受け入れ瞑想と学習と奉仕に方向づけられている希少な人々がいる。一方で、すでに魂と絶えず接触しており、世の中で生きながら、同時に個人的な自我と魂を融合させるという難しいが喜ばしい学びの道を意識的に歩んでいる弟子たちもいる。672夜と接触する機会を持つ99%以上はこの双方でもないため、意味も分からずこのブログをただ通過する。彼らはまだ個人的な幸福を求めている最中であり、個人の限界には気づいていない。

「互いに対立する勢力の中間に立つ者」である少数の読者を平和の意識領域に引き上げねばならない。そのとき私たちは同一の私として合流するだろう。その領域ではすでに平和は実現されており、自身がすべてのものと一つであり、すなわち平和であることに喜ぶであろう。しかし、ここに至る以前の悩み苦しんでいる個人である読者をここに引き上げずして何を真に喜べるであろうか。その秘訣もしくは秘技とも呼ぶべき偉大な意識の転換技術は、自分に生きるのではなく、魂の位置から、アートマとブッディの表現体として、すなわち意志と愛の伝導体として、天上の平和を地上に復興すべく、奉仕へと向かう魂のエネルギーに生き方と在り方を転換させるというものである。残念ながら、多少の厳密さに心を砕きながら文章化すると敷居の高いものと思われがちであるが、そうではない。意識を、最初は自分から他人に向け変えるだけでもいい。自分ではなく奉仕に生きたとき、自分のあらゆる悩みや苦しみがなくなっていることに必ず気づくはずである。そして、奉仕はいとも容易くハート・センターを発達させるため、必然的に愛のエネルギーが流入するようになり、アストラル体は今現在のように情緒や感情を表現するのではなく、愛を表現する媒体へと変貌を遂げることを知るであろう。これほどの喜びを自分のものだけにしておこうと誰が思うであろうか。このような学習や、愛そのものは、完全に万人のものである。万人の生きる糧である。美しい人生、素晴らしい人生、喜びの人生の根底にあるのは、この途方もない愛である。

専門的には、アストラル体の統御に魂から成功した場合、その者のハートは愛で満たされるようになるか、奉仕のために使用するエネルギーとして自在に愛を呼び込むことができるようになる。そして愛に打たれる。そのとき、愛は自分に限定されるものであろうか。愛は神の爆発物であり、関わり合うすべてのものを巻き込まずにはいられない。このとき、愛されることには一切の関心もなくなるだろうが、愛すこと、つまり愛で在ることには強烈な意志で貫かれることであろう。私たちの世界で平和が訪れるのは、人類の多くがこの愛の伝導体になったときだけである。

もし平和を愛から実現しようという意志に私たちが動かされるならば、たとえば最近の政治家の街頭演説などのように、他人や他党を批判することは絶対にありえない。もうそれは一体性から墜落しているため、その者がいかに高邁な思想を持ち、また高度に見える知性を滑らかに操作していようとも、破壊を振りまいているだけであり、平和を乱しているのである。それは、カルマの観点からすれば、その者に帰ってこざるをえない。批判や怒りといった、愛に反する波動に生きるとき、その者は結局のところ、病気や事故や、あらゆるかたちの不運や惨事を自身にもたらしてしまうことに気づいてもらいたい。その人は、世の中を良くしようという思いを誠実に持っているかもしれないが、その表現手段として争いや非難やプライドといった分離精神を用いているのならば、それは必ず自己破壊につながることを教えてやりたいのだが、どうすれば届くであろうか。届いたとして、どうすれば真剣に切実な話として聞いてくれるであろうか。平和は、まず己が達成していなければ、どうやってもその顕現は不可能なのである。

人類の一般大衆には、彼らが知的であれ道徳的であれ、到底、この話は届かない。期待できるのは人類の中の一部の進歩した心の開いた人たちだけである。そのような人たちから、平和は達成されゆかねばならない。言い換えると、自我の放棄が始まらねばならず、その優れた手段として愛を呼び込む奉仕願望が現れねばならない。最初は完全に純粋な奉仕は不可能であろう。つまり完全に魂であることは不可能であろう。それまでのパーソナリティーの悪の残存物と向き合いながら真摯に行われねばならないだろう。ひたすら自分を無視し、見返りを拒否する無私の、無償の奉仕に自らを方向づけねばならない。そうするうちに、これは約束できるが、奉仕が生きがいと言えるようになるであろう。なぜなら、そのとき彼や彼女は愛の経路になっているからである。もっと厳密に言えば、愛と意志という魂になりつつあるからである。このとき私たちは言うであろう。「自身の人生から苦悩や悲哀が去ったのがいつであったかは覚えていない」と。瞑想と奉仕に専念しているうちに、輝かしい天上の光と熱と炎によって、自我が溶かされていたことを知るだろう。それは最終的なことが起きるまでは完全ではないだろうが、完全性を認識することは多少なりとも可能になっており、神をおいて他に従いたいと思える主はいなくなっているだろう。この神の美しさと偉大さを忘れること、そこからあえて分離した自我に戻ることは、何があっても耐えられないという意識になっているであろう。

真我への道を歩むと決意した者が、まだ、あらゆる意味における平和や調和への奉仕ではなく、自分への奉仕に生きているならば、早く目醒めてもらいたい。一生を、ただ数十年単位でせいぜい死ぬ肉体人間のために費やすということは、多少の知性が開花した者であれば不可能ではなかろうか。死ぬ物に生きて何になるだろうか。死なない永遠なるものに生きずして、どうして生でありうるだろうか。美と調和、愛と至福の媒体でありうるだろうか。

やがて、自分も他人もなくなるだろう。「両勢力」は、あらゆる意味でなくなるだろう。非実在の世界ではなく、実在の世界で平和と一体性を知るであろう。これ以外に価値あること、重要であることがあるとは思えない。ぼーっとして、ただ生きているとか、ただ肉体人間の欲求を満たすために働くとか、ただ自分や家族のために苦しみながら生きるとか、ほとんど眠っているかのような生き方から覚醒めねば、まったく無知のまま、まったく進歩のないまま、ただ無意識にカルマを作ったり相殺したりしながら、しばらくして死に、アストラル界にこの世からすれば死人として戻り、再び肉体を纏う機会を得るまで、またしても待たねばならなくなるだろう。これを何千回何万回繰り返すであろうか。肉体人間の意識とは、かなりボーっとしたレベルの意識である。霊的に目醒めた鋭い意識とはかなりかけ離れており、それは人間と動物とは言わないまでもそれに近いレベルの隔たりがある。

目醒めよと強く呼びかけたい。この世で頭脳明晰な人からは、何を言っているのかと笑われるかもしれないが、私から見たとき、その人は無意識のようなものである。あるいは、夢遊病患者のように見える。その証拠に、愛に貫かれていないと思うのである。意識は分離しており、自分が死にゆく特定の肉体個人だと思っており、ただ条件づけられて金儲けや恋愛やコンプレックスからの脱却などに生き、一体なのに批判や争いに生き、全体像を捉えることはなく、ゆえに神に生きれていないと思うのである。これ以上の不幸はないと思うが、現在の人類のほとんどは、まだこの霊的不幸を認識できないのも事実である。それは、肉体やアストラル体や低位メンタル体を構成するエレメンタルを満足させることを喜びだと勘違いしており、それらが実際に喜びや幸福だと感じられているからである。一方で瞑想は、それら低位の満足や感覚知覚からの自由を教え、それらを識閾下に落とすものであり、代わりに神の智慧、神の愛、神の意志を呼び込むものである。ゆえに永遠性を知り、真我を知り、神を知るのである。それはいま、わたしである。マインドが静かであるならば。しかし、三重の諸体に生きるがゆえ、何が真実なのか、何が実在なのか、何が生命なのか、何が喜びなのかを、完全に分からなくなっている。目醒めよと強く呼びかけたい。あなたの意識はまだ目醒めていないと訴えたい。まだ愛の媒体ではないと言いたい。まだ自分に夢中であり、自分ではなく奉仕に生きるから生きていられるという魂の愛の喜びへと解放されていないことを理解してもらいたい。

ここまで言うのも、進歩のない瞑想への落胆や、人生の不幸に苦しむ者が絶えないからである。瞑想の努力はしても、奉仕の努力には一切興味がわかないのである。それは、自分のために瞑想しているからである。それは瞑想とは言わない。「瞑想するから進歩をくれ」という行為である。このような自我瞑想であってはならない。自分の成長があるとするならば、それは神の奉仕のための成長であって、その自分のためのものではない。確実に死ぬことが分かっている自分と、決して死なない自分との見分けをつけて生きぬかぎり、愛や奉仕の美しさは分からないままであろう。自分のために生きることから、奉仕できるから生かされているという感謝に目醒めることもないであろう。私は明確に解放の方法を述べている。信じられぬかもしれないが、瞑想は当たり前としても、その必然として、自分ではなく奉仕に生きることの流れとしての正しさを認識していないならば、その瞑想は自己破壊的にもなりうるのである。入れたものを適切に流し出さないのだから、よく言われるように、内部で腐敗するのである。瞑想と奉仕は常にセットであり一つの話である。もし奉仕を始めるならば、自分の進歩などどうでもいい話になるであろう。なぜなら、愛に貫かれるのだから、それ以上に喜ばしいことはなくなるからである。

いったい何人が、どのくらい理解できているのか分からないが、私の文章で理解の難しいところがあるならば、言ってください。掴み取るまで分からない部分は聞いてください。この話が事実にならないのならば、何の意味もないのである。しかし、質問するときは礼節や常識を忘れないよう、正しき波動でお願いしたい。日頃からの生き方、在り方、ここをないがしろにして、自分では考えずただ適当に質問したり、見かけだけの礼儀を装飾したり、誠実さや真剣さの欠けた意識で安易に接してこないでください。質問を躊躇する必要は全くないが、本気の質問でないと、本気で援助したくてもできないのである。私は誠心誠意を尽くしたいが、その人がまず誠心誠意でなければどうしようもできないのである。

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