起きること、出来事に腹を立てる人がいる。ある者の家に行った際、飼われている室内犬がソファにおしっこをして怒られていた。老犬で耳も聞こえていない。いくら語気を強めても分からないのである。そこにおしっこがしてあるなら、さしあたり拭き取ってきれいにするだけのように思われる。そして必要に応じて策を講じるだけである。
出来事と行為の流れに、なぜ感情が挟まれるのだろうか。些細なことで乱されるのはなぜだろうか。この者は女性であり、職業はヨガや精神世界の講師であり、様々な身体のポーズを操ると同時に、抜け目なく不動産収入を操っている。ある人たちにとって、彼女は美しく魅力的な才色兼備の女性であり、少なからぬ理想と憧れにして精神的な拠り所である。彼女はあるとき次のように言った。「覚者方はホームレスの姿をされることを好まれます」。続けて、人を外見や置かれている環境で判断してはなりません、ホームレスの方を見たならば、試されていることを思い出してください、どのような方の中にも神はおられるのですから。私たちは真実の目を養わなければならないのです。
おそらく、彼女は一度もきれいな目をしたことがない。覚者がホームレスの形をとったとして、それは、彼女がホームレスだということを教えているだけである。彼女はホームレスを哀れんでいるが、実のところ、彼女が家なき子であると覚者は教えている。家からはぐれているのはどっちなのかをホームレスに教えられている。真実の目とは、真実の家のことである。存在と眼差しは同じものである。どのような存在であるか、どのレベルの波動に生きているかで視点や見方が変わる。この女性と、かつては愛された老犬と、何か違いがあるだろうか。姿かたちを我として生きているから、真の我が家を知らずに彷徨っているのである。彼女が犬の頭を叩いたとき、老犬はなぜ叩かれるのか分かっていなかった。彼女はただ、怒りに憑依されていた。そのような波動が彼女を動かしていた。
出来事や行為といった一連の流れと、真の家は無関係である。出来事は、家の外で勝手に起きている。真の棲み家に憩いつつ、窓の外、この現象世界を眺めるべきである。自我の波動に掴まれてふらふらと外へ出て個人として危険に生きるのか、真我に掴まれて平和と静けさに留まり一なる愛に生きるのか、大きな違いがある。犬が何回おしっこを失敗しても、何の関係があるだろうか。内なる至福と観照が、見た目上の世界の出来事で乱れることなどありはしない。我々は何に掴まれているのか。肉体が家なのか、精神が家なのか、欲求や情緒が家なのか、それらの家を行ったり来たりしているのか、それとも不動の真我が家なのか。彼女は不動産収入の本まで出しているおのれに喜んでいるが、一時的な錯覚に金儲けの手段を見い出すのではなく、真の不動産を知らねばならない。野ざらしに居を構えようが、見晴らしの良い高層階に身をおこうが、現象自体は物語でしかない。どの人の物語も一時的な産物だが、どの物語の背景にも一なる実在が存在しており、それは不変にして普遍である。
前回の記事ではそれを太陽で喩えた。存在が当たり前すぎて見えないもの、気づかないものがある。本当に重要なものはこうして見過ごされている。その土台の上に成り立っている人生や世界や運命の方が重要だと考えられるようになっている。逆転しているのである。現象は仮象であり、想念の産物であり、結果であって原因ではない。実在は隠されているわけではない。他のものを重要と見なすことで見過ごされているだけである。だから、目をつむるとことは、誠に優れた目の治療である。真に目を閉じ、また想念を瞑るならば、目は開くだろう。その目と存在は同じものである。観照は常に在る。瞑想で観照に入るのではなく、瞑想で諸体を調整することで観照に感応できるようになるだけである。すでに在るものを知覚できない状態、他の錯覚が本物にして重要だと見なされている騒音状態、高位我のエネルギーではなく低位我のフォースに家を占拠されている状態、この無知と無政府状態に対し、真我の輝き、光、知恵、そして愛という波動がなだれ込み、えも言われぬ至福に満たされるとき、ありとあらゆる形態の背後の生命が知られるだろう。すると覚者は言うだろう。また一人、我が家へ帰ったと。