寒気

私はひどい冷え性で、最近とても寒いのです。それで暖房器具や防寒着など、可能なものを取り揃えているのですが、それでも寒いときは寒いのです。この寒さに困っているとき、あなたの前回の記事を読みました。「あるものはない」という趣旨だと思いましたが、それはどれくらい現実的な話なのでしょうか。私は、「寒さは在るか」と自分に問いかけ、寒さを見てみようとしました。すると、寒いだけでした。なので、あなたの意見は、私たちの現実の話ではないと思います。

私が寒さを感じたとする。そして、その「寒さ」に気づき、寒気を見たとする。何が起こると思うだろうか。体内に熱が作り出される。人間には、瞬時に自家発熱する力が備わっているのである。

熱と寒冷は対義的な概念だが、瞑想する者はこれらを共に乗り越える能力を開発できると思う。なぜ、高熱のときに悪寒を感じるのだろうか。なぜ、極端な熱に触れたとき最初は冷たさを感じるのだろうか。なぜ、頭部に流入する火の熱はときに冷たく感じられるのだろうか。なぜ、失神している人は熱も寒さも感じないのだろうか。

マインドを通すとき、すべては解釈ないしは想念である。それらの解釈は、創造主の意向に沿って自動的に解釈されるものもある。熱や寒さはそれに当たる。しかし、これらの話は我々の世界に属するものであり、低位マインドよりも上の界層に意識を焦点化する場合、無効化しうるものと考えるべきである。神が、自身で創造したものを統御できないことがあるだろうか。同じことで、霊的人間に統御できないものは究極的にはないはずである。これは信念や信仰の話ではない。何よりも現実的な話である。

あなたは寒い。そして暖かくしようとする。これは寒さからの逃避である。永久に、寒さが何であるかを知ることができない。私なら確かめたい。寒さとは何なのかに興味を持つ。あるいは「寒さ」などと命名せず、それそのものを直接的に見るだろう。こういうことを提案しているつもりである。極度の寒さは困難かもしれないが、日本人の言うレベルの、あるいは冷え性の人が感じるレベルの震えるような寒さであるならば、克服するのはそう難しい話ではないと私は思う。

私の現実は、私は寒いということです。あなたが虚言癖の持ち主か、妄想に陥りがちな人ではないとするならば、あなたの現実には寒さはないのでしょう。体内に熱を作り出せるのでしょう。それは普通の人が聞けばおかしい話だと思うはずです。どっちが現実なのでしょうか。私たち人間とは、寒さを感じる人たちであるというのが現実です。

疑うことをすすめる。肉体レベルの話である場合、自家発熱の技術は多少の訓練がいるかもしれないが、そもそも熱はどこから来るのだろうか。熱が高温であれ低温であれ、科学者が言うように、それは同じエネルギーである。また熱力学が言うように、高温は低温に移行するがその逆はない。低温に対しては高温が混じり合うことで熱平衡の温度に保たれる。

これをオカルト的に言い換えよう。下から侵入してくるフォースに対し、上から流入するエネルギーが打ち勝つならば、そのフォースは打ち消すことが可能である。ほどよい体温に人間が通常は保たれているように、高位のエネルギーはそれを自動的に為す力がある。

以上は必然的に、高位我のエネルギーが低位我に注がれていることを前提としている。これも言い換えると、パーソナリティーと魂が連結していることが前提である。いわゆるアンターカラナの前半が構築された意識環境のことである。瞑想はアンターカラナの科学の一部であり、その前半も後半も瞑想が可能にさせるが、あなたが主張する「人間」は、「人間+魂」ではないため、このオカルト的な熱交換の技術が開拓されていない。したがって我々の目標は、まず人間を魂と接触させ、最終的に自我を真我によって終わらせることである。つまり復活である。

私は長年瞑想をしていますが、「人間+魂」ではないようです。道のりは長そうですね。

長くしているのはあなたである。事実は目の前にある。あなたは想念や解釈と同一化することを好み、それが自我を養うための自我による自作自演であることに、なるだけ気づかないように努めている。「あるもの」は、あなたが作り上げているものであり、「体験」とは自作自演である。これらのことは、後に自動的に分かるようになるだろう。真剣に瞑想することである。しかし、我々はしばしば真剣さの意味を勘違いしている。

例えば、先日忙しくしていた後、終わってすぐに瞑想に入ることを妻に告げたとき、「それにしてもよくそんなに集中力が続くなぁ」と無邪気に言われた。瞑想は全く集中ではない。しかし、世の中では集中することが瞑想であると言われている。「人間」が集中しようとするとどうなるだろうか。脳とマインドが痛めつけられる。これは愚かな自我瞑想である。何度も言うように、瞑想しているのは魂である。自然の集中状態にあるのは魂である。自我は魂に溶け込むことでその自然の集中に至る。あるいは法則に入る。この状態ではカルマを生み出さない。この領域から道を踏み外したとき、想念と自我の世界が登場し、分離と二元が開始される。この世界での真剣さは努力と呼ばれ美徳化されているが、我々は一切の価値観から自由でなければならない。解釈はどうでもいい。事実だけが重要である。進歩は遠い先にあるのではなく、完全に目の前にある。その寒気のように、課題はいつであれ目の前にある。解かれるのを待っている問題はいま目の前にある。「道のり」を言い訳にせず、目の前の自身の現実に目を向けることが真剣さである。真摯さである。礼儀であり誠実さである。「人間」とは、したがって不誠実の結果である。そして不誠実とは、物質の誘惑に負けた無知の結果である。霊は、物質を克服しなければならない。

私は何をすればいいのでしょうか。

と言っているのを見ることである。付き合ってはならない。あなたの「私」は詐欺師である。ここを真剣に考えてほしい。自我で何を行っても自我は拡大される。我々にできることは、まことにただ気づいていることだけである。

気づいて何が起きるのでしょうか。

あなたの話や物語が遮断される。低位我への栄養補給が閉ざされる。これが習慣になるとき、自我が餓死するのである。

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