川の流れのように

目的を持って瞑想している者は失敗する定めにある。言い換えると、瞑想で得られた力で、個人に良い効果を求めるという発想は、霊的ではなく物質的であり、そのような最初の動機に気は方向づけられるゆえ、決して調和や一致が訪れることはない。だから「瞑想に効果が見られないからやめた」と彼らは言うのである。それは、瞑想が物質的な自己を繁栄させる手段であると勘違いしたがゆえである。霊を物質に仕えさようと、神の意志ではなく、個人の意志や目的という逆の力に条件づけられていることが瞑想の失敗の原因である。

初心者が瞑想を始めようとするとき、彼は呼吸法とか何とか瞑想とか、方法でやろうとする。つまり自分でやろうとする。これでは気が狂ったままであり、実際に起きているのは神性に対する個人性の抵抗である。エネルギーに対するフォースの抵抗、霊に対する物質の抵抗である。それが無知であるため、ラマナは明け渡すように言ったが、今度は、「明け渡してみます」と人間は言うのである。これがコメディでもジョークでもなく、本人からすれば本気で言っているところに無知の悲しみがある。いったい誰が明け渡そうとしているのか。明け渡そうとしている主体こそが、明け渡されるべき対象であることを、どうしたら気づけるのであろうか。瞑想をしようとしている個人だけが、瞑想を邪魔しているという事実に、いつ我々は気づくであろうか。

これを理解した者は、個人的な自我は何もできないことを理解する。自身が妨害者以外の何者でもないことを認める。その結果、個人的な動きは、関わるべき対象ではないことを学ぶ。意識が個人性と関わらなくなることが、必然的に意識自体の静寂へと導き、個人というヴェールに覆われていただけで、最初から存在していた本物の自己が露わとなる。それが魂だが、内なる目で魂を見るならば、それが一つのエネルギー・センターであることを理解するだろう。魂というセンターを介して、何らかの霊的源に方向づけられた意志であるエネルギーが流れていること、向かっていること、しようとしていること、働いていることを知るであろう。この意志に、個人は従属する姿勢を取り、すなわち整列し、同じ一箇の流れとして合流すること、これだけが人間に求められていることである。

求められているのは、個人に関する限り神の意志である魂の意志に従い、完全に自己を放棄するという内的な態度である。

アリス・ベイリー「新時代の弟子道4」p.314

どの川も一定方向に流れており、最終的には一なる大海に溶け込む定めにある。瞑想で発見されるのはこの自然な流れである。泳ぐのではなく、ただ川の流れに身を委ねるならば、何もせずに、順調に、間違いなしに、目的地へと運んでくれるであろう。瞑想で、神の流れを見出し、個人的な意志という方向づけや抵抗をやめて、ただ神の流れにだけ揺蕩うならば、法則と一致し、神の波の動きつまり波動と一致し、即座に意識は愛の大海へと溶け込み、個人は何もせずして一なる神の至福に溶け込むだろう。彼がしたことと言えば、客観的に見れば、ただ神の流れに自身を方向づけただけである。意識的に流れに流されただけである。個人の意志という絶えず定まらぬ迷いの流れを、一定である神の流れにだけ同調させただけである。抵抗が従順の意義を理解し、何かをする必要があると思っていた個人が、するのは自分ではなく神であることを理解し、神の意志の流れに協力すること、つまり自己を捨てることこそが最高奉仕であり、最高美学であるることを知ったとき、長かった一つの時代が終わるだろう。剣を捨て、愛と慈悲と至福に包まれて、どれだけこの世で強かった者も、その抱擁の中で泣くであろう。もう戦わなくてよいのである。

瞑想は平和への道である。調和と一体への道である。ゆえに、神を知る者は決して戦わない。決して対立しない。決して敵を持たない。むしろ、すべてを愛で包みゆき、この一なる愛ゆえに最高の喜びを味わうのである。これは、ただ瞑想で神の流れを、すなわち神のエネルギーを知り、己という器を神の純水で満たし、浄化し、神の愛の歩みに参画することだけが真の幸せであることに目醒め、ゆえに喜んでそれまでの自己を神に捧げ、融合させ、神の燃えたぎる火の光の中で、真の意味で死中に活路を見出したこと、これが復活であり、真我覚醒である。この目覚めの中では言いようのない美が明らかにされるだろう。醜いとは、見にくい結果であり、見える者には美しいものである。この世の醜悪なものですら、その背後に神の完全性を見る者は、一時的な事象ではなくそこに最終的な大団円を知るがゆえ、永遠の眼が見るものは、すべて神に保証されたまぶしいばかりの最高の美である。これは照らされた光の美学である。

この最高至福の道をなぜ人類は共に歩めないのであろうか。一部の者にしかこの愛と光と至福の美しき道は拓かれぬのだろうか。道を歩むことができるようになる前に、道そのものにならねばならない。道を歩むのは神のみである。神と我が一つのものにならぬかぎり、どうして神の栄光の門が開かれるであろうか。瞑想で、人々はまだ何かを自分でするものと思っている。自分の目的に瞑想を仕えさせようとしている。考え方が逆のままである。我々は明け渡される側でしかないのに、自分で自分を明け渡そうとしている。これは論理的に破綻しているではないか。我々という荒れ狂った波を静かにさせるのは、瞑想を介して訪れる神の力のみである。この力が、我々自体を静かにさせ、その穏やかで波立たない意識の湖面に、日の光を照らし出すことができるようになるのである。そして日と火が混じり合い、闇という闇が燃える光に焼き尽くされ、聖なる燃焼を観照しつつ、我々は天の至福と交わりうるほど純金になるのである。

以上の文章が指し示した瞑想に、個人の「方法」や、個人の「動機」や、個人の「目的」が入る余地が一つでもあっただろうか。個人は何もできない。瞑想が成熟したとき、ラマナが言うように、「探究を始めた私ではなく、深淵から別の何かが現れ、あなたをつかむ」。この力が神の本流であり、神の意志であり、すべてを飲み込む力である。どの人間も、最後にはこの力に平伏す定めにある。どの川も最後には大海に溶け込まざるをえないのと同じで、流れは一つだからである。これが人間における神の意志である。明け渡しとは、この神の意志におのれを捧げることにほかならない。それは個人からすれば何もしないことになる。角が取れて丸くなる石のように、神の美しき通路を流転しうるほど我々という四角は円になる。荒波に揉まれ、石と石、石と岩、意志と違和とがぶつかり合い、丸くなるまで、あとどれだけ間違った流れに流される必要があるであろうか。しかし、間違いに流され生きぬ限り、何も学べず、間違いという角を理解することも削ることもできないのも事実である。最終的にはどの人間も丸くなる。どの四角も円になる。どのパーソナリティーも魂になる。この定められた道を、瞑想を通し、我々は意識的に生きることができる。そうしようではないかと言っている。なぜならそれだけが道だからである。神の流れにおのれを調整せねばならない。これは簡単なことではない。しかし、どのような意識も、法則から外れるという苦しみに耐えることは最後はできなくなる。神から逸脱して分離した個人を演じる苦痛にだけは耐えられなくなる。このとき、神の流れはその者の意識においては強制的な矯正になり、そのような輪廻の末期にて言われることといえば一つだけである。それは、真我以外はすべて苦痛というものである。つまり、神だけが至福というものである。

目次