巻き込まれるなかれ

瞑想は日常を含む。日常を含まなければ、何のための瞑想だろうか。日常を飲み込まぬ瞑想は非実践的であり、その者を決して変えてはいない。

日常では個人に帰り、アストラル的になり、都合の良いときだけ瞑想しよう、これは初心者なら許される。例えば車に乗っていて、渋滞で苛つく者がいる。他人の乱暴な運転であわや事故になりそうなとき、その相手に腹を立てる者がいる。急いでいるとき、前の車が徐行並みの速度で走行しているさまに我慢もならず、車間距離を詰めて煽り運転をしたりクラクションを鳴らしまくったりする者がいる。いくら瞑想していても、日常で苛ついたり、怒りに屈したりするようでは、率直に言って話にならない。世に負けている。世とは、わたし自身のことである。わたし自身とは諸体のフォースのことである。高位のエネルギーがそれらに打ち勝たねば幻影の殻から脱することはできないのである。

なぜ世の中のことに巻き込まれるのだろうか。これは大事な質問である。起きることをどうにかしようと考えている。出来事や体験や見せられること、これらは観照にしか値せず、どうでもいい話である。起きることに巻き込まれるなら、そのたびに情緒や感情の犠牲になるだろう。自分の思う通りにならないことは、おしなべて立腹の対象になるだろう。個人で生きているのである。我々が真に瞑想し、真に日常でも魂であるならば、起きることに巻き込まれはしない。起きることは、起きねばならなかったことである。法則から逸脱したことが起きることはない。起きることで乱されるならば、そこに法則から逸脱している自身という学びを見つけることができる。我々が生きている目的は、個人の目標のためではない。そのような個人の選り好みや好き嫌いから撤退し、内在の魂と融合し、一切の無執着の意識に入り、そのえも言われぬ美しさ、素晴らしさ、喜ばしさ、そしてひじょうに静かな平和の広がりに溶け込み、あえて個人の分離意識に入って傍若無人なばかりの態度を表現する必要はなかったことを知らねばならない。そのために目を瞑り、我々はおのがうちを探求しているのではないのか。

或る人が、どうしても乱されますと仰る。そのどこが問題なのかと思う。あなたは乱されたとき、乱されまいとする。これが間違っている。それは抵抗しているだけである。誰かに横柄な態度を取られて心乱れたとき、その乱れをハートで見ることを学ばねばならない。そのようなアストラル界のフォースは、魂の位置から無執着に見られたときだけ、即時に変性され、その感情や葛藤に翻弄されるのではなく、それら自体が存在していないことを悟らせるのである。アストラル界というものもまた存在していない。メンタル界の錯覚つまりイリュージョンの結果の一つの様相にすぎない。だから、気分が悪いとか、腹立たしいとか、そういったものに抵抗せず、ただそれを見るか、あるいはそれとともに在るならば、許すならば、対象は美と平和に溶け込むのである。

世の中に巻き込まれる必要はない。この教訓を学ぶのにかなりの生涯を必要とするが、いずれは習得しなければならない。それは今日から意図的に始めるべきである。すると、何であれ学びになる。学習や修行はインドに行くのではなく、日常の一瞬一瞬に存在する。われ自らが学校である。自身という三重の諸体を統御することが目標にして卒業である。どこかで誰かに学ぶのではない。ここで自らに学ぶのである。このような基本を知らぬ者のなんと多いことか。何かあれば他人に質問、あるいは頼り依存し、おのが神性をないがしろにする。このような者には孤独がしばしばふさわしく、そのような環境がカルマ的に与えられるだろう。聞きたくても聞けない。頼りたくても頼れない。そういう環境を強いられるだろう。なんとその者の幸せなことか。外ではなく、内を強制されるという僥倖に恵まれたのである。我自らで在るとき、本物の幸福が何であるかを知るだろう。我々は個人ではなく魂である。世の中で魂として生きることで、世界は完全に美しくなるだろう。かなり前の記事にも書いたが、「スーパーの惣菜すら美しく見えた」と、愛という意識に入った者がその体験を語っている。すべての根底に愛や喜びが存在しており、それを捉えるのは一部の歴史的な芸術家だけではなく、魂と整列していさえすれば誰もが常に真の芸術家なのである。彼や彼女はすべてに美をみとめる。美という美が我として唯一としてすべてに輝いていることをハートで知る。このとき、世の中の出来事にどうして巻き込まれることがあるだろうか。

アドバイスがある。定期的に目を瞑ってもらいたい。乱されたとき、目を瞑り、ただそのままで在ってもらいたい。すでに魂のエネルギーを使える人は、魂として存在し対象に気づくこと、つまりわずかであれ、どのような乱れをも即時に捉え、ただ見ることで、エネルギーは自動的にその箇所へ方向づけられ、絶えず魂が勝利することになる。つまり、ずっと平和であり、ずっと無執着であり、それゆえずっと喜ばしく、美しく、何もかもが素晴らしいという境地で生きることになる。これを弟子は目指さねばならない。弟子の目標は個人から魂に到達することである。パーソナリティーと魂の融合である。結果、意識において魂が優勢になり、たえず個人つまり諸体は統御下におかれることで、低位のエレメンタルは死滅し、低位亜界の物質は除去され、高位亜界の物質が首尾よく組み込まれ、天人とも呼ぶべき意識状態を享受できるようになる。このとき乱されることはなく、何かに影響を受けるということはなくなるだろう。病気の苦しみであれ、怪我の痛みであれ、精神的な苦悩や悲哀であれ、そんなものよりも天上の光と美と力が強すぎるあまり、それらすら美しいと思えるだろう。

世に巻き込まれずして生きること。それは個人ではなく魂で生きるという意味だと知り、個人の求めるものを食するのではなく、瞑想を通して魂が求めるものを食し、そうすることで諸体を養い、低位ではなく高位に養いの糧を求め、それを受け入れ、変容していってもらいたい。変容の鍵は日常である。つまり絶え間なく瞑想できるようになるとき、すなわち絶えず魂でありうるとき、その者は真我を知るだろう。魂が霊つまり生命自体を教えるだろう。世に騙されず、世に巻き込まれなかった者だけが、この世ならぬものを知るだろう。これは難しいことではない。学ぶ気があるかどうかの問題である。おのれから学ぶ気があるかの問題である。知るべきことは、すべておのれ自身で知ることができるよう、人間というメカニズムは設計済みである。瞑想を通し、この内在の霊的なシステムを開発せねばならない。それをどのような用語で呼んでもいっこうに構わないが、知識ではなく、本から得たものではなく、おのれに見出す勇気が必要である。神は素晴らしかった。学ぶ意志のある者には学べるように創っていた。見放されたと思っていた者も、見放すことがないよう、すべてに内在させていた。天才的手法である。それまでは世界や個人や出来事や幻影に錯覚を受けるだろうが、何が本物なのかを見失わず、なぜ生きているのか、何が生命であるのかを真剣に我にむかって追求し、人間の唯一にして真の目的を達成してもらいたい。

変容のイニシエーションの糸口はパーソナリティーにある。……第三イニシエーションを受ける秘訣はパーソナリティーの主張と要求から完全に自由であることの実証である。そのために霊的な生命を完全に表現する必要は全くないが、イニシエートの奉仕と彼の生命表現が、生活傾向と人類への完全な献身の観点から見て、また広く全般的に考えて、低位個我の依然として存在する制限の影響を受けていないことを示している。

アリス・ベイリー「光線とイニシエーション 上」p.68
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