師弟関係の超克

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質問:弟子の区分について

見習いの弟子や受け入れられた弟子という区分についてですが、真の覚者はそのような区分を否定しています。アリス・ベイリーの著作はいくつか目を通しましたが、ラマナ・マハルシのような覚者の教えとは根本的に相容れない教えであると感じます。この点について見解をお聞かせください。

「見習いの弟子(Probationary Disciple)」と「受け入れられた弟子(Accepted Disciple)」という概念は、ジュワル・クール覚者が整理した概念である。

  1. 見習いの弟子とは、霊的な道に入ることを目標としているのではなく、すでに入っている者たちであり、自我の限界と魂の可能性に完全に心を開いている。したがって、正しい人格の形成や魂との接触の拡大が重視される時期である。依然としてパーソナリティーの意識が強く、個人的な欲求や感情的な反応――つまりアストラル界を戦場として悪戦苦闘することになる。より高い意識を熱望しながらも、魂との安定した融合には至っておらず、個人的な試練や葛藤を通して学ぶ、「魂の闇夜」の時期に属する。この段階は、知識とインスピレーションによって導かれる。
  2. 受け入れられた弟子は、魂との繋がりを求める者ではなく、すでに繋がりが確立された者たちである。よって個人よりも全体を優先するようになるのである。彼らの主戦場はアストラル界ではなく、メンタル界へと移行すべきであるが、『新時代の弟子道』の3~5におけるジュワル・クール覚者の指導を見る限り、受け入れられた弟子の多くが、依然として個人的な問題を抱え、魂の意識とパーソナリティの意識を行ったり来たりしていたことが分かる。この二重性を克服するために、彼らは魂に専念すべくメンタル界で苦闘する。この段階は、知恵とイルミネーションによって導かれる。

あの一連の書物が世に出されたおよそ百年ばかり前、ジュワル・クール覚者は、「受け入れられた弟子は世界に400人しかいない」と明言している。それにも関わらず、『新時代の弟子道』の中で登場する受け入れられた弟子たちは、依然として個人的なレベルの指導を必要としており、彼らの足取りはまだ不安定であった。これは、「受け入れられた弟子」という地位そのものが、真の霊的完成には程遠いことを示している。彼らの多くが、まだ自我意識の中で自身の内的葛藤を抱え、個人的な思考や感情、あるいはイリュージョンやグラマーの影響を受けながら指導を受けていた。魂とパーソナリティの統合に至った者が、そこには一人もいなかったということが、指導内容を見れば明らかである。

この事実を考えると、「見習いの弟子」や「受け入れられた弟子」という概念が、形態意識における進化の過程を示す一つの指標にはなるものの、それほど重要なものではないことが分かる。彼らは、魂の意識へ移行しようと苦闘する過程にあるにすぎない。しかし、このような区分は、人々が自身を過大評価することを防ぐという点で有益である。アリス・ベイリーの読者の多くが、謙虚な姿勢を取ることを余儀なくされるのは、ジュワル・クール覚者の意図であり、霊的高慢が招く多くの危険から学ぶ者を保護する作用をもたらしている。

最も重要なのは、ジュワル・クール覚者がある受け入れられた弟子に対し、「あなたの奉仕を存在することに集中させなさい」と述べているように、最終的には師弟関係や個人的な成長段階を超え、生命の中心そのものに意識を移行させることにある。意識の転換が起これば、見習いの弟子か受け入れられた弟子かという区分は全く意味を持たなくなる。これはイニシエーションという区分においても同様である。

霊的成長において、師弟関係は必要なのか?

霊的な師弟関係は、特定のカルマ、そして特定の段階では役割を果たす。しかし、それは霊的成長の過程で用いられる仮の構造に過ぎず、最終的には完全に超えていくべきものである。霊的な進化において真に重要なのは、内なる生命の中心へと意識を向け、それと融合することである。そのとき、いかなる差異も高低も存在しないのである。

例えばクリシュナムルティは、外的な権威がもたらす障害について繰り返し言及した。ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジは、グルと弟子の関係を尊重したが、彼らが示した「グル」とは、本質的には真我という絶対的な存在そのものであり、個別の師弟関係を超越したものだった。彼らの教えは、実際にはいかなる差異も存在しないことを示し、そのような想念の超越を求めるものであった。

この視点に立つと、「マスターに受け入れられる」という概念は、ある段階において機能するかもしれないが、瞑想や実際の融合の段階においては障害となる。師弟関係に頼り続ける限り、意識は真に自由ではなく、生命の中心へ完全に入ることができない。「存在することで、すべての秘教的な仕事が行われる生命の中心を見つけなさい」。これは、ジュワル・クール覚者が或る受け入れられた弟子に与えた言葉である。つまり、最も重要なのは、外的な関係や段階ではなく、生命の中心――ラマナ・マハルシの言う「フリダヤム(Hridayam)」を直接知ることなのである。

生命の中心への道

「生命の中心」に至るためには、段階を上がることを目的とするのではなく、ただ「在ること」で十分である。「在る」とは、個人が「在ろうとする」いかなる騒動も存在しないときの、ただの純粋な意識状態である。個人の感覚が消え、内なる魂として存在することで、一なる生命の中心への道が拓かれる。

この視点に立つならば、最初から生命の中心へ意識を向けることは可能であり、それこそが最も純粋な霊的進化、すなわち認識の深化である。外部の認定を求める必要も、特定の段階に到達することを目指す必要もない。ただ、生命の中心と融合し、その流れに生きることがすべてである。これは「人生」ではなく、「生命」そのものである。

このような段階に到達したとき、「大師と弟子の意見に相違は存在しなくなる」とジュワル・クール覚者は述べている。つまりそういうことである。生命は一つである。もし二つとか五つとかであれば、生命は苦痛である。一つだから至福であることを知らねばならない。人間は分離しているから苦痛なのであり、魂意識に瞑想で入ることで、初めて苦痛が存在しない世界つまりエネルギーとフォースという対立のない自然な状態を知る。

存在することの奉仕的意義

なぜ「存在すること」が弟子の最大の奉仕なのか。それは、霊と物質という対立の中間に位置する魂として、物質の条件づける力を無視し、霊の存在そのものの領域へ意識を焦点化することで、いわば担当していた物質が破壊され、そこに閉じ込められていた生命がその源へと帰還することが可能になるからである。フォースとは、エネルギーではあるが、霊ではなく物質の質料に条件づけられている。これが惑星ロゴスの関与する惑星的な問題であり、すなわち我々の真の問題である。

それは、個人の霊的な進化が目標ではないことを意味しており、この世界の構図そのものが、惑星のカルマの解消と関係していることを示す。このように意識を拡大するにつれ、「覚者」や「弟子」という区分は自然に消え去るだろう。そして、個人的な達成という視点も消え去り、生命の本質的な目的と意志に融合することの重要性が理解されるはずである。

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