高所の沈黙へと入る能力が必要である。マインドの鎮静化はリズムの法則によってもたらされる。もし、あなたが多くの方向に揺れ動き、あらゆる方向からの想念を感知するならば、この法則があなたに作用することはできない。そのため、平衡を達成できるようになる前に、バランスと安定を取り戻さなければならない。波動の法則と原子質料の研究は密接に絡み合っている。これらの原子とその活動と反応と相互作用についてもっと多くのことを知ったとき、人々は波動の法則とリズムの法則に同調し、科学的に自らの諸体を統御するようになるだろう。
アリス・ベイリー「ホワイトマジック 上」 p.89
すべて低位の体は、より高位の体から放たれる波動のリズムに置き換えられることで、その高位に属するようになる。体とは、同じ等級の質料の集合体である。どのような体に宿っているかで、物質と霊の相互作用によって生じる魂もしくは意識レベルは変化する。我々の意識は、我々の諸体を構成する質料が、各々の界層におけるどの亜界の波動に感応し、その亜界をどれだけ支配しているかに依存している。したがって、高位亜界の物質を諸体に組み込むことで、新しい高位の意識は常に開拓されるのである。瞑想とは、高位の波動に低位体の意識を感応できるようにさせ、低位体の波動を高位の波動に置き換えるという科学的な取り組みである。例えば、魂との接触が始まるのは、諸体に第三亜界の物質をそれなりに組み込んだときであろう。第二亜界の物質が諸体で優位性を築くとき、人間は変容の第三イニシエーションを受ける。第一亜界つまり原子亜界の質料だけになったとき、第五イニシエーションつまり解脱が完了する。
我々は、絶えず物質と関わっているのである。言い換えると、我々である霊つまり生命は、現象の世界においては何らかの物質を通して顯現しており、それに応じた意識状態で、神つまり生命自体の目的に物質内から従っているが、人間においては目的を個人的なものに置き換え錯覚している最中である。個人が魂と融合するようになり、物質を構成する質料に目覚めた意識で働きかけることができるようになったとき、以上の話は現実的なものになるだろう。神秘家は漠然とした瞑想を卒業し、科学的な瞑想に移行するだろう。何のために、何が行われているのか、目的を知った上で、高位我として低位我を統御するようになるだろう。このとき、人つまり低位我は、あらゆる物質形態への執着や関心を失うようになり、進んで高位我に従うようになる。つまり、それまでの主が低位体のフォースであったのに対し、認識できるようになった高位体のエネルギーが新たな主、つまり意識における活動領域になる。エネルギーとフォースを識別できるということは、低位体と高位体を識別できるということである。ここにおいて、「どちらが自分であるのか」という主題が意識における学習と試練になる。だから「私は誰か」と言うのである。よく言われる弟子の意識の二重性はこれを指している。弟子はイニシエートではないため、まだ完全に高位我に従うことができない。低位我と高位我を(法則の中で)揺れ動いている。瞑想を通し、低位と高位が完全に融合されるまで、つまり第二亜界の物質を支配できるようになるまで、二重性における戦いは続く。しかしそれは時間の問題でしかない。
物質は、いわゆる霊との接触によって活性化され、つまり秘教的な意味で「上げられ」、霊もまた、物質での経験を通してその波動を高めることができるのである。この二つの神聖な様相が結びつくことで、私たちが魂と呼ぶ第三のものが出現する。そして、魂を通して、霊は知覚力、意識的な自覚、感応能力を発達させる。この感応能力は、霊と物質が分離するときがやがて周期的に巡ってきても、恒久的な獲得物として存続する。
「ホワイトマジック 下」 p.236
堕天使や原罪などの概念は、霊と物質における相互作用の意味や目的が稚拙に(その稚拙さは意図的である)に解釈されたものである。我々は霊つまり高位の引力と、物質つまり低位の引力のはざまに意識を置いている(平均的な人類はまだ低位の引力しか認識していない)。どちらにも引力があるということは、いずれの引力の背後にも力を操作する存在がいるということである。神と悪魔、あるいは進化と退化という概念もここから来ている。人間の場合、前者の目的に一致することが目標であるため、物質や形態といった目に見えるもの、在ると思われてきたものから焦点をずらし、その背後の波動、エネルギーやフォースといった、原因の世界へ意識を移行させねばならない。したがって、自身をまだ個人と思っている初心者に向けて、イニシエートは次のようにアドバイスしている。
行わなければならない仕事があるというグラマーからではなく、敏感に感応するという問題に専心しなさい。結果ではなく原因を扱いなさい。結果は必然的に生じるものである。
人間は行為の主体ではない。それらの体は、何らかの出来事や目的を引き起こすことになる道具もしくは経路でしかない。現在はまだ、人は低位体のフォースに動かされている自動装置だが、人間が意識的でより知的な高位の媒体になるとき、同一化してきた低位のフォースは高位のエネルギーに置換され変性されねばならないことを認識するだろう。これを自身の内部で成功させ始めたとき、人は三界を”マスター”する術に目をみはるようになるだろう。マスターとはエネルギーのことだったのである。行為者は自我ではなく、生命だったのである。こうして人は生命エネルギーとリズムを調和させるようになる。これが人間における帰還の道、つまり神への道である。