リズムの不均衡は本当のところ、時間がもたらす錯覚であって、宇宙センター内には存在しない。このことについて熟考する必要がある。なぜなら、それは平和の秘密の鍵を握っているからである。その言葉の意味を余すところなく把握する必要がある。なぜなら、それは次の人種での意識拡大を説明するものであり……
アリス・ベイリー「宇宙の火 2」p.284
高位のリズムと低位のリズムが大まかに言えばある。人間の場合、霊のリズムと物質のリズムが混ぜ合わされたものであり、通常は完全に物質のリズムに支配されており、物質のリズムが意識内における自己を条件づける要因となっている。残念ながら、(低位が静かになることで)高位のリズムを理解している者は人類の中でもごくわずかであり、高位と低位のリズムを調和させている者はさらに稀である。したがって、人類が躍動しているかに見えるこの惑星は常に戦争状態なのである。これは極めて重要な話である。
マインドが超越されたとき、時間というものはない。人々の概念でいう未来であれ過去であれ、存在と現在にすべて集約されている。時間がないとき、あるいは時間のない領域においては、均衡しかない。調和と平和しかない。そこから出た後、マインドの世界になり、記憶に支配され、「私は特定の個人である」という分離した誤認識が生まれ、その偽の私感覚と自己同一化したとき、均衡が不均衡になるのである。平和が戦争になるのである。これは明確に時間がもたらす錯覚であり、時間とはマインドと同一化した意識が感じる錯覚である。
マインドが超越された意識に入るまで、弟子は、高位のリズム(エネルギー)を低位のリズム(諸体のフォース)に課すことで調和を達成させようと時空間内にてオカルト的に努力する。これに成功したとき、彼は時間の領域から隔離解放されて、永遠性の領域つまり純粋な現在という存在領域にて自らが調和していること、波立つものが一切なく、ゆえにすべてと一体化したこと、あるいはすべてが我が内に「最小の努力、適切に調節されたバランス、必要な速さのリズム」で収まったことを知る。そしてそれが平和という語が真に意味するものであることを我みずから理解するのである。
平和を知らないとは、己の平和を知らないということである。自我しか知らず、真我を知らないという意味である。ゆえに分離しており、争うこと、奪い合うこと、一方が他方をねじ伏せること、害することが可能であるという分離意識に陥る。己が平和を達成しておらず、世界の平和にどう貢献できるだろうか。道端の殴り合いを止めることは可能だろうが、彼らの内部に遺恨が残るかぎり、いつかまた衝突が起きるだろう。戦争の種子は、我々の内部、つまり人類のいたるところに念として放置されたままである。このどこが平和だというのだろうか。単に休戦中だというだけである。法律などの規制や強制がなければ人殺しをしたいと思っている人間は無数にいる。何が争いの原因であるかを内部に見て取ることができるようになるまでは、平和の意味を、この世的な見た目上の話に限定するだろう。ここには知性の欠片もない。
すべてのリズムもしくは波動が統一された存在の状態をまず自身で達成すべきである。ジュワル・クールはこれが次の人種の意識拡大と関係すると述べているが、大多数においては未来の話であっても、これを読むような者においては早急に達成されねばならないものである。人類の平和は、内界の平和の二次的産物でしかない。十分な数の人間が時間という錯覚から抜け落ちて、”現在神”の平和に溶け去るならば、この惑星で争いは終わる。いったい誰が誰と争えるというのだろうか。均衡がどうして不均衡を表現しうるであろうか。言うまでもなく、均衡が達成された人類を支配する原理はそのとき愛になる。一つも嫌なことはなく、すべてが喜び、すべてが完全、すべてが美しいという世界が達成される。しかしそれは、内的に達成されたものの外的な顕現と表現であるにすぎない。
人類の根本的錯覚は、この世が唯一の現実だというものである。物理的に、形態(物質構造)がエネルギー状態によって規定されることや、運動、リズム、相互作用、配置と配分、力同士の均衡などが観測される形を決めていることは、学生ですら理論的には知っていることである。なぜその学問的な常識を己に適用できないのだろうか。我々が自分と思っている個人を存在せしめているのは、何らかの種類のエネルギーとフォースである。
簡単な例で言えば、物理学の言う「エネルギー保存の法則」がある。「自然界において形態や運動が変化しても、背後のエネルギー量は保存される」というものである。運動 → 熱(走ると体が温まる)、熱 → 仕事(自動車のエンジン)、化学反応 →光(蛍の光)など、形態は変化してもその背後のエネルギーは同じであると科学は証明している。エネルギー量は変化しないが、先程言ったような、エネルギーの分布や配置、拘束条件や相互作用といったエネルギー様式の変化が、形態変化をもたらすのである。これが分かっていながら、なぜ自らを条件づけ、また特質づけるエネルギーの世界に人は目を向けないのだろうか。オカルティストは科学者が発見するより途方もなく遥か以前から初歩的な常識としてエネルギーやフォースや質料を扱ってきた。そして弟子たちには、目に見える結果の世界ではなく、その背後のエネルギーの世界(原因の世界)を強調し、教えてきた。物理学者に聞いてみるといい。形態はエネルギーの「結果」であることを認めるだろう。形態がエネルギー配置のいわば安定像であり、したがってエネルギーの条件が変われば形態もまた必ず変わることを認めるだろう。低位我から高位我へ移行することも全く同じである。どのエネルギーを捨て、どのエネルギーのリズムと自らを一致させるかだけである。これを真の意味で実用的に教えるのは学校でも大学教授でもなく、瞑想で連結するようになる魂である。
この、一般常識として分かっていても、真に分かっていないのはなぜなのか。結果と原因の違いを学問的に理解していても自身には適用できないのはなぜなのか。この話が重要であることすら通常の知的人物が理解できないのはなぜなのか。それは、エネルギーに目を向けるとは、「説明を理解する」ことではなく、「注目の焦点を移動させる」ことを意味するからである。
「私はこういう人間だ」という像や、「この反応は私のものだ」という感覚は、先程の表現に倣うならば、一つのエネルギー配置として安定しているからである。実際は混乱しているものを安定とし、混乱に慣れすぎてそれが普通となり、その不和状態に何の苦痛も感じないまでに「気」が狂っているのである。ゆえに、この誤った安定が壊されることを人間は最も恐れている。言い換えると、私である自我が無くなることを恐れている。だからこそ、自身の原因であるエネルギーの様相に目を向けるということを、潜在的に避ける傾向にあり、耳を塞ぐ、目を背ける、このページを閉じる、といった逃避を続けるのである。例を挙げよう。「私は怒っている」ではなく、「怒りと呼ばれるエネルギーが流れており、肉体や精神を条件づけようとしている」と見ることを避ける。言い換えると、責任の所在を「私」だとみなそうとするのである。なぜなら、そのような自作自演で自我は養われるからである。事実は、エネルギーが悪さをさせようとしているのに、私が悪いと人は言う。ここに、「私=特定の個人」という強烈な自我への執着が見られる。
以上を考えさえすれば、なぜ、聖人や熟練した瞑想者があらゆる不和や苦悩や悲哀から自由であるかが分かると思う。私はいま仕組みを説明したのだから、理論上だけでも理解できたはずである。彼らが自由なのは、形態の様相を無視して、エネルギーとフォースの観点からしか見ていないからである。たとえ時間意識の領域で活動するときでも、エネルギーとしてフォースに対処しさえすれば、ほとんど全部の問題が解決するのである。あらゆる不調和は平和に変化させられる。それは殴り合いの仲裁に入るだとか、結果の世界で行うものではなく、そのような者らを動かしているエネルギーに働きかけるのである。まずは自分から始めることである。己の内部の一切の不和を、神である純粋エネルギーで上書きするのである。すると、我々を形成している肉体・アストラル体・メンタル体の質料つまり形態はより等級の高いものへと変化し、エネルギーの在り方、配分、強度、質と量、リズムと振動の速まりによって、形態質料は変化し、その結果、意識が変化するのである。これがより高位の意識に入るという話の簡単な物理学的解説である。これが分からない者はほとんどおるまい。分からないと言う者は、自我を維持したいがために、逃げているだけある。
