多難な道を迷い生きれば心は壊れる
人間の心は簡単に弱くなります。摂取する悪い飲食物、諸体に条件づけられた悪いフォース、バランスを欠いた五大元素の影響、これらの習慣と蓄積によって、不健康と不健全が心を脆弱にします。アルコールや薬物は人を鬱状態や廃人のようにし、他者に対する怒りや恨みといった感情的な思考、あるいは満たされない欲望や強烈な恐れを安易に受け入れる習慣は、カルマ的に同じような現象を定期的にもたらし、人を不幸にします。そして、やりきれない自滅の道を進むうちに、心は――つまり人は――「ほとんど役に立たない状態になる」のです。最終的には、魂が肉体の死をもって解放を試みることになります。
「心の鍛錬」という世間の圧力
世間では「心は鍛えるものだ」と言われます。しかし、それは本当に正しいのでしょうか?
心の弱い者は学校でいじめられ、会社では叱責されるでしょう。誰しもが、人生の難所をそれなりに乗り越えてきたという自負を持っています。だからこそ、試練を避けようとする者、逃げたがる精神的傾向の者、いつまでも「大人」になりきれない者――こうした「弱者」は周囲から嫌われます。それを恐れるがゆえ、子どもの頃から人は心や己を鍛えようとします。いじめられれば格闘技を習い、授業についていけなければ塾に通い、馬鹿にされれば二度と傷つかぬように外面的な強さと魅力を身につけようとします。そして大人になっても、この努力は続きます。
瞑想の本質は心の鍛錬ではない
しかし、瞑想の世界はこの「心の努力」の延長線上にあるのでしょうか?
霊的な道、弟子道、精神世界と呼ばれる道もまた、心の鍛錬の範疇に含まれるのでしょうか。明らかにそうではありませんが、それでも多くの人が努力をしようとしています。それは、私たちがまだ心の中にいるからです。心を自己だと思い込んでいるからこそ、心を通じて何かを成そうとします。例えば、誰かが定義する瞑想法を習得しようとしたり、霊的な「かくあるべし」という理想像を追求しようとするのです。私もその道を通りましたが、融合の意識から顧みるならば、それらはどれも必要のないものなのです。霊性とは、心を観るものではなく、心を変えようとするものでもありません。変容するのは意識なのです。
真の瞑想とは何か
「思考と思考の合間」という記事でも書きましたが、「心が不在の時に存在しているもの」を知覚できるようになることが瞑想の目標です。私たちはその瞬間を捉えたことがあるでしょうか。偽物を排することでそれを知覚できさえすれば、本物だけに焦点を当てた生き方を始めることができます。
あなたがしなければならないことは、真我でない他のものごとに注意を払うのをやめることだけだ。
ラマナ・マハルシ「あるがままに」
何年かけてでも、この一点を徹底的に理解していただきたいのです。瞑想の成果という観点から見れば、これを理解する者としない者とでは、霊的な未来に大きな差が生じます。一方は容易に達成しますが、他方はほとんど成長しません。その理由は、後者が心(マインド)を扱っているからです。
心で瞑想する者を無知と呼び、心を無視する者を賢者、すなわち悟り人と呼びます。目を開け続ける生活では、「見えるもの」と「私」という二元の世界に完全に迷うことになるでしょう。存在していない物を重要視することになり、本当に重要な背景の実在は見えなくなってしまうのです。そこで目を閉じるのですが、もし瞑った後も「私」と「心」という二元で瞑想するならば、それは自我による自我のための拡大瞑想でしかありません。心と格闘するのではなく、「道ですれ違う一人ひとりと戦わないように」、ただ関わらないでもらいたいのです。
これ(自我の格闘)は人々がしばしば犯す誤りだ。あなたが真剣に真我を探究するときに起こることとは、「私」という想念が消え去り、探究を始めた「私」ではなく、深淵から別の何かが現れ、あなたをつかむのである。……(その別の何かとは)真我である。それは自我ではない。それは至高の存在そのものである。
ラマナ・マハルシ「あるがままに」p.102
瞑想と魂の関係
断言しておきますが、私たちが瞑想で求めている本物と心は、まったく関係のないものです。本物が原因となり、そこから心が生じ、さらにそこから現象が生じるという流れがあります。したがって、感情や欲求、思考といったものとの関わりがなくなるほど、思考と思考の合間、あるいは霊と物質の合間――すなわち魂を知覚できるようになります。
魂と接触できるようになったら、魂そのものをよく観てください。それ自体が実体ではなく、中間体であり、霊の顕現のための器であることに気づくでしょう。透明なガラスが光を映すように、魂のエネルギーを辿れば、その本質は「在る」に行き着き、心を超越した存在へと至ります。「それ」で在ること、心を超えて「それ」を慈しむこと、その美そのものに酔いしれること――これが、人間に心を超えた至福を教えます。この至福は、個人や心の状況に左右されることなく、絶対に途切れることのないものです。こうして「あらゆるものが喜びに変わる」のです。そのとき、人は二度と「自分」を見失うことがなくなることでしょう。
心に囚われず自由に生きる
周囲から「心が弱い」「メンタルが弱い」などと言われても、気にしないでください。逃げたいと思うことに対して、あまり心で頑張らないでください。できないことをできるように努力することが、この世では時には必要かもしれません。しかし、それによって心に一生消えぬ傷を負ったり、トラウマに絡め取られて健常ですらなくなるのならば、それは誤った努力であると私は考えます。
真我を知り、本物の癒しを知る
真我は心とは無関係です。この世の常識で自分を測ったり、縛ったりしないでください。自らを解放し、穏やかに、静かに、小さな自分のためには何も求めることなく、心の動きに惑わされず、ただそのままの自分で在ってください。これこそが真の癒しへ導くのであり、この真我をおいて他に、私たち人間や人類という病んだ状態を優しく包み込み、癒やすものはありません。
心に頼らず、心を「迂回」して、内なる「在る」に落ち着いてください。偽物の背後にあるもの、すべてが静まったときにのみ見出しうるもの――それが静かな心に突然映し出され、真実を知るのです。そしてその瞬間、すべての苦闘が報われたこと、すべての痛みや苦しみが癒やされたことを知るのです。