「してやる」という錯覚について。たとえば主婦は、料理を作ってやってる、掃除をしてやってる、などと言い、旦那は旦那で自分が養ってやっている、などの感覚を持つ。これらが奉仕ではないことは明らかである。なぜなら無私ではないからだ。見返りを求めている。「してやっているのに」という不平がある。真の奉仕の場合、結果に対する執着も、結果を出したことによる報酬の要求もない。このような問題の本質は、一体性を知らぬという、その一点である。したがって、一体性の境地からでなければ純粋な奉仕は厳密には不可能である。
一体で在るとき、奉仕する者と奉仕される者という分離はない。奉仕は、神の愛や神の意志といった高位のエネルギーのことを言っているのであり、人間という媒体においては、それらのエネルギーがいかに歪曲されることなく自身を通して純粋に流出ないしは表現されるよう、諸体を整えるだけである。神の愛と意志に生きることが、したがって奉仕である。そこに行為者は存在しない。奉仕する者もされる者もなく、神の愛と意志の必然のことを、我々は奉仕と呼んでいる。それは結局のところ、一にして全である神の計画への奉仕のことである。なぜなら我々は個人ではなく真我すなわち神だからである。
神と生命は同義語である。神のエネルギーとは生命エネルギーであり、この真我に生きるときだけ、我々は我々を束縛するものから解放されるのである。真我に生きるがゆえに、真に生きることができ、生きることを喜ぶことができる。生命自体に生きることが自然なのであって、生命の後に生じた数多の表面的な錯覚に生きるとき分離意識に束縛され、本物が見失われ、個人という錯覚が生じ、奉仕もまた個人がするものだという大錯覚に自縛される。
自殺や苦悩を防ぐ方法は、分離した自我ではなく、神聖なる神の生命で在ること、つまり真の己に目醒めさせる以外に存在しない。自我で生きる場合、自殺や苦悩は防げない。耐えられない何かが起きたならば人は自殺する。そこに至るまでのあらゆる苦悩を経験する。もうこれが嫌だから、自我ではなく真我を見出したいと思うべきである。その場合、真の自己実現は切迫した目の前の危機であり、何としてでも成し遂げねばならぬ唯一の課題である。したがって、このレベルの認識にある場合、ニサルガダッタ・マハラジのように、「見い出せないなら死ぬしかない」と思うのは当たり前である。クリシュナムルティは、結局のところ誰も聞かないのはそれが真の問題になっていないからだと言っていた。言い換えると、多くの自我はその自我が火急の危機であることを認識できないのである。それはある意味、あまり苦しくないということである。
「To be, or not to be: that is the question」というハムレットの独白は誤解されている。「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」という意味ではない。「生命でなければ真に生きれない」という意味であり、ゆえに「真我でなければ死ぬしかない」もしくは「自我は死」である。生命は意識とは無関係である。それは純粋な一なる存在つまり絶対である。全宇宙もしくは森羅万象は、神とその無限のパーソナリティーのような関係であり、生命とその無限の表現であるが、貫かれているのは、生命だけである。よって、生命エネルギーに一致した在り方つまり生き方でないかぎり、法則から外れ、一体性から外れ、智慧から無知に転落し、自由から呪縛へ堕し、ただ無意味である。ただ無価値である。生命・神・存在・実在・真我、これで在るか、これでなくなるか、それだけが問題である。肉体の生死の話ではないのである。
奉仕はこのような実在に生きているときの必然的な表現であり、我々の意図によるものではない。「私がする奉仕」ではない。「私がしてやる奉仕」はさらに錯覚している。「してやる」とか、「した結果の報酬や見返りを求める」とか、無私の対極である自我に生きて、一つでも嬉しいことがあるだろうか。自我を自分と思うならば、世の教師のように、霊的なものを教えて大金を貰って嬉しいだろう。もし真我で在り、その表現が結果的かつ必然的に神の表現であるゆえ神の奉仕であるならば、その一体において、報酬や見返りという概念や欲求が生まれるはずがないだろう。それら偽を求める者とは、至福を知らず、偽物で自身の空虚を埋めざるをえない不幸と無知に呪縛されているだけである。霊的教師とは、霊であり、生命であり、媒体を通してこの真の本物のみを教える者であり、その媒体の意識は、その神の意志つまり奉仕を表現できることで生きていられるのであり、それだけが霊的至福なのではないのか。霊的なものを教えつつ、この世の何かを対価として求めるならば、普通の人からは笑われるだろう。
初心者が最初に知ることは、本物の教師は内側にしかいないということである。最初の教師は魂である。彼が最初の真我である。何万回という転生の間、自分であったものである。しかし、転生経験を可能にさせ、その認識を可能にさせる意識と、意識を可能にさせている意識以前の生命とは次元の異なるものである。個人が書物などの知識から瞑想を始め、次に個人が魂と融合し、次にその融合が真の本質である生命に目を開かせる。これをニサルガダッタ・マハラジが別の表現で言った箇所がある。
私は四種類の発話を経験し、それらを超越した。……まずバイクハラ(言葉)から始まって、私たちは言葉を聞く。バイクハラからマドフヤマ(マインド-思考)に行く。マインドを眺めているとき、私たちはバシャヤンティの中にいて、そこでは概念が起こる。そこからバラ(言葉のない「私は在る」)へ行き、最後にバラから意識以前に行く。これが従うべき道筋だが、本当にまれな者しかそれに従わない。
ニサルガダッタ・マハラジ「意識に先立って」p.264
672夜を読む者の多くは、新着記事を待っているだけである。読んだ後、実践が全生活の中にあることを覚えておく者は稀である。責めているのではない。このような記事は、マハラジの引用で言えば概念までにしか導かない。そこから先の教師つまり「まれな者しかそれに従わない」教師とは、魂である。「言葉のない私は在る」に導く教師は、瞑想を通して接触できるようになる自己つまり魂である。概念ではなく、魂が教師になったとき、「従うべき道筋」が明らかになる。それは簡単な道筋で、ただ、「私で在る」ということである。それまでは自我であれこれしていただろうが、何もする必要がなかったことを真に知ることである。なぜなら、私は魂になり、それまでの私は死ぬからである。もともとなかったもの、錯覚であったものが消えるだけであるため、そこには喜びと美しさしかない。その本当の私で在ることが道である。だから、「道を辿ることができるようになる前に、道そのものにならなければならない」のである。
最後の魂の超越は、第三イニシエーション以降の話であり、まだ我々にはそれほど関係のない話だが、近々真に関心の対象になるだろう。従うべき道筋さえ発見すればその後の展開は早いからである。道筋を教える案内人である魂と融合するならばその後は楽だ。苦しいのは、自我が魂を発見するまでである。「まれな者しかそれに従わない」その道案内人つまり魂の意志もしくはエネルギーとの融合一致という話を伝達するのがこのような記事の役目であり、道の入口付近までしか導かない。その先の案内人は、瞑想と、瞑想の必然である奉仕と、また正しく生きようという決意によって見出されるものである。この魂を見つけ、ずっと自己であったものを発見し、生まれて初めて「安らぐ」という意味を知り味わったとき、自身において調和と平和は達成され至福を味わうだろうが、いわば神を構成する我々すべてがこの道を辿り神すなわち真我に到達するまでは、神の計画は達成されぬままであり、言い換えれば、我々の奉仕が止まることもないのである。神に生きる者は幸いである。偽我ではなく真我に生きる者は最高である。これは、外の教師に頼る気持ちを捨て、自ら瞑想で見い出す魂という真の教師に従ってはじめて知られる故郷であり、そこの支配者は愛であり、一体性という美であり、ここに生きるときのみ、我々は真に生きていられるのであり、これだけが、満たされることのない人生で我々すべてが求めてきた真実の生である。
