恐怖はイリュージョンである。この言葉は暗記しておくか、忘れっぽい人は腕あたりにタトゥーを入れておくといいだろう。そのくらい覚えておくべきものである。瞑想中の恐怖について質問があった。我々の学びは霊的なものであり、それは物質から霊へと意識を向かわせる進歩に関する秘教である。これとは逆の秘教が存在し、真の黒魔術と、その道を辿る弟子やイニシエートや覚者のような者たちが存在するのも事実である。天使と悪魔といった概念でその違いが表現される場合もあるだろう。書籍などから彼らについての概念を持つ者が、瞑想中に起きる恐ろしい事象と関連づけて攻撃を受けていると考える場合がある。実際にそうである可能性はかなり低いが、本人は恐れている。稀に、いわゆる死んだ者、生きていた時から邪悪であった者、肉体を脱いでなおアストラル界から悪に動かされている者たちと波長が合ったことによって彼らを引き寄せたというトラブルもありうるが、普通はただの想像力から来る恐怖というものがほとんどである。何にせよ、今回は、いかなる恐怖からも自由であることができるよう、光のテクニックについて考えたい。
恐怖感と言うように、それは感覚である。それはアストラル的だがメンタル的でもあるカーマ・マナス的なフォースである。何かが起きて怖くなったとしよう。通常の人は、その恐怖感に圧倒されて、様々なことを想像する。ブラック・ロッジからの攻撃だとか、心霊現象だとかいった具合に。事実、まだ準備のできていない不純な者が、その不純で邪悪な動機から瞑想したり、逃避的で夢想的なあまりに間違った受け身の態度で瞑想したりすることで憑依される場合が稀にある。通常の正しい態度で正しい人格として瞑想の道に入る者にはこのようなことは起こらないし、万一起きても、道に入っている場合、彼か彼女をそのオーラ領域において担当している高位の弟子やイニシエート方が保護してくれるため、基本的に心配することはない。ただし、道を歩むような者は、保護者にいつまでも頼っていてはならず、保護の技術を自身で習得し、独り立ちしている必要がある。でなければ何の役にも立たないままだからである。
瞑想中に光を見るだろう。見ない場合は、やがて客観から主観に向き直ることで、つまりマインド自体に注目の焦点を向けるようになるに従い、徐々に白く光り輝くものとして、眉間の上あたりに発光体を見るようになるだろう。パーソナリティーの光と魂の光が接触したときに頭部内に輝く光である。いずれもメンタル界に集中する高位の光として、以下の三つの光があることを覚えておくべきである。
- 魂とパーソナリティーの混ぜ合わされた光。これは真に瞑想する者がよく知るものである。
- アシュラムの光。これはブッディ界の光である。
- 霊的ヒエラルキーの光。これはアートマ界の光である。つまり、神の計画についての理解と協力が生み出す光であり、霊的意志との一体化による光である。
集中が得意になるにつれ、その光は大きくなり、やがて果てもなく拡大されるようになり、我光なりの一体性を認識できるようになる。ここからが重要なところであるが、その光は利用できるのである。今回の主題は恐怖であるが、恐怖にはこれらメンタル界に集中している光をそのまま眉間から差し向けることで、あらゆる闇の対処法がこの世でもそうであるように、簡単に白日の下に晒すことができ、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ではないが、存在していないことを照らし上げることができるのである。必要なときは、この光を上から随意に呼び込み、自身が光そのものとして、光とともに働くことが可能になる。よって、「光の勢力」といったやや子供じみた表現があるが、あれは事実なのである。霊的ヒエラルキーの方々はこの技術を体現している光の存在であり、我々もまた瞑想で光を頭部から拡大することにより、あちらであれこちらであれ、闇であるところには自在に光を差し向けることが可能になる。光は知恵に変換することもできるし、邪悪なフォースに対する無敵のオーラとして対抗することも可能である。これを習得したとき、すべては光なりの境地を知るであろう。というのも、あらゆる質料に光は内在しているからである。
ちなみに、弟子の段階にないような利己的な瞑想者たち――そのような兄弟たちはまだ自身が利己的であることに気づいていない――ですら頭部内の光を見ることがあるが、この光は物質の原子に内在する光であり、霊的な光とは無関係である。エーテルの光を見る人もいるが、重要なのは、それらパーソナリティーに関する光ではなく、魂の光である。この違いを理解しなければならない。そして、低位我の光と高位我の光がいつかは融合しなければならない。ただし、相対的に高い段階に到達している弟子でさえも高位の光を認識できないことは多く、光が現象的なもの、つまり波動や振動は違えども物質的なものであるかぎり、見ること自体が重要ではないことは覚えておく必要がある。とはいえ、第三イニシエーションの前つまり第二イニシエーションの後に魂の掌握対象がアストラル体ではなくメンタル体になったとき、そしてメンタル界に揺らぐことなく集中することが出来るようになったとき、その界層に存在している三つの光つまり三つの波動の最初のものから見ることができるようになるであろう。
これはイリュージョンに対する光のテクニックの話である。魂として、まずブッディ界の光を呼び込むことが可能になったとき、イリュージョンは追い払うことが可能になるだろう。グラマーの場合、つまりメンタル界よりも下のアストラル界のイリュージョンの場合、魂の光を差し向けるだけで消し去ることが可能である。これはいくつか前の記事で紹介した読者の方が実証されたものでもある。この意味で、グラマーに対してはイルミネーションつまり魂の光が有効である。我々が最初に習う対応表を再び見てみよう。
名前 | 界層 | 対象物・知性 | 克服方法 |
---|---|---|---|
マーヤ | エーテル界 | インスピレーション | フォースの操作 |
グラマー | アストラル界 | イルミネーション | 瞑想 |
イリュージョン | メンタル界 | 直観 | 魂による観照 |
どの錯覚の克服にも、一つ上の界層の光が必要であることに気づくだろう。アストラル界の錯覚には、メンタル界の高位亜界に存在する魂の光で十分である。恐怖のようなアストラル的ではあるがひどくメンタル的な錯覚の場合は、メンタル界の一つ上のブッディ界の光――直観の世界の光が必要になる。直観と直観の光は同じものである。この文脈での違いは、現象の世界にその顕現としての光の様相を呼び込みそれを認識するかどうかである。
以上だけを読むと難しく感じられるだろうが、説明というものはそういうものである。実践は難しくない。それを言葉や文章にすると想像力が入るために難しくなる。実際は、つまり実践ではこのような分類は不要であり、概念的な分類が認識される必要は最初の確認だけで後は必要ではなく、ただ光として、必要なところに光を活用できるようになるであろう。それができるようになるまでは、瞑想中に恐怖に襲われるような場合は、あなたを助ける人がいることを覚えておけばいい。完璧である必要は全くないが、その方に恥じぬような生き方をしているならば、我々はまだ知らないが、我々の背後に保護者がおり、彼らの守護は必然であことを覚えておくべきである。彼らに思いを寄せるならば、経験からくる信仰の強さによって、すぐに恐怖は安らぎに置き換えられるだろう。しかしこれは神秘家のその場しのぎの方法である。したがって、我々は結局は魂に到達せぬかぎり、ほとんどのことが出来ないことになる。逆に到達しさえすれば、ほとんどのことができるようになって驚くだろう。白魔術は、魂以上の界層の力によるものである。霊的に余分な贅肉を瞑想で削ぎ落とし、日々純粋になり、邪悪なものが足を踏み入れることのできない領域に到達し、守護されるのではなく、守護自体に我々はならねばならない。光としての光による守護である。やがて実際に光に包まれるようになるだろう。自身が光にほかならないことを見い出すだろう。このようにして、光の勢力の一団に加えられる資格を得るだろう。すると、今度は恐怖なき安らかなる光として、闇に惑わされ生きる兄弟姉妹を助ける番である。