整列とそれに続く接触を通して魂のエネルギーが呼び起こされ、目覚めさせられ、活用される。これは偉大な消散する力であり、魂のレベル(メンタル界の高位レベル)からマインドを通して弟子の脳へと流れ下り、アストラル界にイルミネーションをもたらす。
アリス・ベイリー「グラマー 」p.61
魂のエネルギーを認識している人は多いが、それが何を意味し、どのように活用できるのか、ここを理解している人はそう多くない。冒頭の引用では、魂のエネルギーが呼び起こされることで、「アストラル界に対するイルミネーション」をもたらすと書いてある。またそれは「偉大な消散する力」であると書いてある。消散するのはグラマーであり、グラマーとはアストラル界の錯覚である。それはどのようなものを指すのか。例えば、苦悩や悲哀、悔しさや恨めしさ、不安や恐怖、優越感や劣等感、気分や快不快、そして幸福感や不幸感――我々がよく知っているあらゆる感情や情緒という非実在のことである。平均的な人類はこのアストラル界に焦点化し、この相反する極を揺れ動いている。不幸なら幸福を、不快なら快楽を、といった具合に。もし我々が瞑想を通して整列し、魂との通路(アンターカラナの前半)を開き、その滞りない伝導体になるならば、アストラル的な錯覚、つまり情緒的・感情的な錯覚は消散される。言い換えると、それらを感じることはできなくなる。
人は次のように言い始めるだろう。私は不幸ではない、それは幸福でもないからだ、その中道に存在する不動、つまり魂だからだと。アストラル体の統御段階で、相反する極に騙されず、その中道だけを歩むように訓練させられるのは、そこに答えが見つかるからである。そのとき人は、幸福だけは求めるが不幸は困るとか、快楽は必要だが不快だけは結構だ、などと矛盾した霊的ワガママを言わなくなる。彼はいかなる情緒的状態であれ、「どちらでもいい」とか「私には関係がない」と言うはずである。なぜなら、彼はもはや個人ではなく魂だからである。
パーソナリティーの深い悲嘆と不幸の直中にあっても、魂の喜びを知り感じることができる。これは秘教のパラドクスであり、決まり文句である。しかしながら、それは事実である。学ぶ者はこれを目指さなければならない。
ホワイトマジック下 p.68
魂(コーザル体)とは高位我の媒体である。つまり、メンタル界の抽象レベル、高位三亜界に存在するものである。低位マインドは、魂を介してこの抽象亜界に接触するようになり、人々が使用している具体的思考ではなく抽象思考を捉えるようになる。さらに進化の梯子を昇り、メンタル体や想念を統御する段階では、同じようにメンタル界の錯覚が追い散らされねばならなくなる。それは、高位抽象マインドさえも超えて、直観つまりトリアッドのブッディ界にまで貫通することを意味している。しかし人間の主要な問題である苦悩や幸不幸といったアストラル界の錯覚は、第二イニシエーションの前に克服されるのである。したがって、かなり早い段階でその類いのものは霊的に超越されるとなぜ私が言い続けてきたか、理論的に分かると思うのである。
瞑想を始めてから人間関係が苦手になりましたとよく聞く。それは、同じ意識レベルの人が周囲にいなくなるのだから、その意味では仕方のないこととして、精神的に病むほど苦しむ人も多いのである。低位我つまり個人に焦点を合わせて活動を余儀なくされるのが人間関係かもしれない。しかし彼や彼女は次のことを忘れている。高位我に焦点を合わせたまま活動できるということを。これに対する反論もよく知っている。変な人だと思われるとか、いわゆる周囲の評判や奇異の目に対する恐怖である。何を考えているのか分からない人、ミステリアスな人、近寄りがたい人、何かしら怖い人、ちょっとおかしい人――このように見なされることを恐れ、どうしても低位我に波動を落として人々と接触するのである。このような弱音は霊的な道に存在できない。正しく常識的で愛ある動機つまり推進する魂のエネルギーの媒体であるのなら、誰にどう思われようが関係のないことである。アストラル的に周囲とのオーラを分離することは、弟子は必ず学ぶ。そのとき、ある種の孤独が訪れる。彼は結婚していても孤独である。友人や仲間たちに囲まれていても孤独である。これは、彼が低位我ではないという意味でしかない。
瞑想中の意識を日常で維持してこそ弟子である。瞑想では高位我のエネルギーに従い、目を開け活動を始めたら低位我のフォースに従うのでは、何をしているのか分からない。高い波動を維持すること。もちろん、周囲はそれを嫌がるだろう。低位に引きずり下ろそうとしてくるだろう。だから、彼らとは離別しなければならないかもしれない。同じ意識レベルでもはや生きることはできないからである。かつて愛した人、かつて親友だった人たちもまた、彼らの魂の管轄下にあり、彼らに可能なレベルで前進している。だから別れにあまり罪悪感を覚える必要はない。このような離別と孤独は弟子にはよく起こることである。あまり関知せず、気にせず、低位我ではなく高位我に没頭せねばならない。どっちが自分なのかを忘れないように。何のために生きているのか忘れないように。一生は一瞬である。できるときにすることをしなかった、ではもったいないのである。このような孤独な道を、誰の支援もなく、文字通り血を流しながら、魂を信じ、相反する極の中道に固執し歩み続けた者が、第二イニシエーションを受けてきたのである。アストラル体の統御が第二イニシエーションであり、それは情緒性質からの自由を意味している。つまり、今まで困らされてきた不安や苦しみや悲しみが霊的になくなるのである。この価値を知ってもらいたい。人生に悩みはなくなるのである。彼はもはや個人ではない。