瞑想は、人間が内なる善のエネルギーに回帰せんとする本能的な道標である。しかし、物質世界のフォースは強風のように魂の飛翔を阻む。その力は往々にして我々を悪しき方向へと誘い込み、道義の座標軸を歪めるのだ。
現代社会において、社会的価値は経済的価値へと転化し、資本の論理が津波のように人々の生活を侵食している。その波は教育、医療、住居といった人間の基盤を容赦なく飲み込み、社会的価値を瓦礫へと変えつつある。この過剰な合理性は、人類の集合意識を資本の飽くなき追求へと駆り立て、金銭の多寡が幸福と恐怖を分かつという浅薄な構図のもと、人間の魂を深刻なまでに堕落させている。結果として、人々は獲得による快楽や虚栄心の満足を自己実現と錯覚し、失うことへの恐怖に怯えて生きるようになっている。こうして執着が霊性を忘れさせる。
この歪んだ社会構造は、富や健康、機会の格差を再生産するばかりで、平和や平等の実現を遥か彼方へ追放するものである。善の力は無力化され、精神的・物質的貧困が世界中で拡大しているる。その結果、人々は無意識のうちに悪のフォースに屈服し、悪しき道へと惑わされる。瞑想が善への道を切り拓くように、その対極の道を進まんとする運命もまた存在し、物質界とアストラル界では、悪のフォースが人類の芯を冷たく蝕み続けている。獲得と消費を「自己実現」の手段として奉じるこの倒錯した思想は、人間の存在意義や生命の本質的な目的を覆い隠し、魂を無知によって搾取する仕組みを延命させ続けている。
例えばアフリカ大陸には、いまだ豊かな資源が眠るが、その地に生きる人々は現代版の奴隷として酷使され、わずかばかりの富の還元を望むことさえ叶わない。現代の悪の媒体であるグローバル企業は、劣悪な労働条件のもとで痩せ細った黒い肌の仲間たちを使役し続けているが、彼らに必要なのは我々のボランティアだろうか。感情的なデモや政治的介入だろうか。あるいは、技術移転やインフラ整備、または現実を突きつける映像や報道だろうか。一方で、なぜ聖者たちは沈黙に座し、神と呼ばれる存在さえ何もしていないように見えるのだろうか。それは「する」と「在る」の違いを理解できない我々の視点の問題なのだろうか。つまり我々が問題なのだろうか。
あらゆる出来事は、必然の結果である。原因が存在する限り、結果の発現は避けられない。目に見える結果のみを見て善悪を論じるのは、人間の短慮がもたらす誤謬である。瞑想者は、結果という具体的な現象から意識の焦点をずらし、エネルギーやフォースという原因の領域におのれを融合させる者である。悪と見なされる出来事は、霊の対極である物質のフォースに縛られた無知の結果であり、この無知を克服することこそが我々の使命である。
我々の世界を形作るのは、アイディアとその解釈にほかならない。平等という崇高な理念すら、悪の手にかかれば共産主義や全体主義といった歪曲された形態へと安易に堕落する。また、文明の名のもとで民族や文化が抹殺されることもある。宗教は対立の温床となり、大衆管理の手段と化している。政治もまた恐怖と暴力を正当化し続けている。悪は善に寄生する存在であり、その影で繁栄してきた事実を直視する者は少ない。
悪とは何なのか。それは霊のエネルギーに反する逆の力(フォース)である。この力が例えば信仰深い者の心に入り込むとき、彼らはむしろ「神の不在」を声高に主張し始めるだろう。悪魔的な宗教や組織が信奉し、おぞましい儀式を通して交流するのは霊のエネルギーではなく、物質のフォースである。彼らは外界での力のために物質的フォースを体現する存在へ魂を捧げることを絶対視している。しかし、この低位の波動は、人類が真の自己に目覚めることで容易に高位のエネルギーへと変性しうるものである。この啓示は、宗教ではなく科学の領域から必ず明らかにされる時代が来るだろう。
横隔膜より下に位置する三つのチャクラは、今は人間の魂を物質性に色づけてはいるが、それは本来、暗闇に燃える聖なる火種のようなものである。正しい瞑想と生活を通して、その炎は相応する高位のチャクラへと漸進的に上昇し、人間を神聖なる媒体へと変容させる。
変性元 | 変性先 |
仙骨センター | 喉センター |
太陽叢センター | ハート・センター |
脊柱基底センター | ヘッド・センター |
我々の真の奉仕とは、真我に目覚めることである。真我、すなわち神を知らずして、どうして神の目的と調和することができるだろうか。商業主義を幸福の手段とする時代は終焉を迎えつつある。星辰の新たな整列がこの錯覚を崩壊へと導いている。これは天体の周期的な変化がもたらす新しいエネルギーが、この今、我々の惑星に注がれており、物質的価値観の限界を浮き彫りにし、霊的なアイディアに響応しうる魂を増し加へつつ、結束させていることを意味する。「その時、畑に二人の者がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼を引いていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される(マタイ24:40-41)」。森の木々でさえ、地下で根を絡め合いながら養分を分かち合っている。誰一人取り残されぬ世を築くべく、我々は低位のフォースと高位のエネルギーを識別し、すべての兄弟姉妹と神性を分かち合わねばならない。分離ではなく、すべての中に自らを見、ちょうど神がそう実演しているように、愛そのものとしてすべての下僕にならねばならない。そのとき、悪は善を理解し、利己主義は犠牲の崇高なる意義に目を開き、分裂した関心の領域は神の意志へ一体となり、あらゆる苦しみと悪が根絶されるだろう。だからこそ我々は、今日も瞑想を通じてこの平和の道を歩むのである。