意志に定むる魂の弓

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魂の発見以後

魂を見出した後は、魂として存ることが目標になる。魂が新たな自分であるためには、マインドの活動を滅し、存在そのものへの自然な集中に意識を焦点化し続ける必要がある。これは、融合を安定させるための時期であり、これにも通常は何年もかかる。この時期が長くなるか短くなるかは、魂に対する真剣さに依存する。

前の記事で、意図的に「気づきに引き戻そう」とするならば心の強化になると書いたが、この段階の内なる存在への意識の引き戻しはその逆で、心の弱体化にしかならない。まず、本物――ブラヴァツキーの言葉で言えば「True Ego」に集中するためには、偽物つまり想念やマインドは鎮められている必要がある。魂への集中とは、心が魂に溶け去った存在の状態である。

人は、まだ個人意識に引っぱられるが、見出した内なる存在に意識を引き戻し、集中する必要がある。これは、マインドが「I AM THAT」を認識する段階から、溶け去った「I AM」という存在へ、意識と生命を移行させる過程である。私はかなり実践的な話をしているつもりである。魂と接触している人はそれなりにいるが、魂を明確に認識し、魂と融合し、人知を超えたその領域に生き生きと休息することができる者は少数である。最初は波動的な接触から始まるが、存在そのものへと融合してゆかねばならず、またその意識を日常でも途切れることがないよう、たゆみなくその意識・その存在へと引き戻し、集中することで、超越を完成させ、二度と個人意識や分離意識に戻らぬよう努める必要がある。

ちょうど狩人が獲物を仕留めるために一心集中するように、静かに息(個人性)を潜め、当のものへ、矢が象徴する意志を集中させねばならない。この時期を過ごす魂がしばしば射手座のもとに転生してくるのは偶然ではない。ケンタウロスが半身半獣なのは、個人の動物性と、個人の超越というより大いなる目標へ一心集中する個人の象徴である。多くの人間がまだ動物的であるが、彼は聖なる意志を媒介に、個人内のいかなる動物性をも超越すべく、魂に狙いを定めている。

努力・集中・意志の肯定

これまでの記事で、私は「努力」や「集中」を否定してきた。それは個人的なものだからである。しかし、融合の段階に入ったならば、いかなる軋轢も摩擦も苦痛もなく、対象へ意識を方向づけることが可能になる。この方向づけは、方向づけようというパーソナリティーの意志が発端となるが、方向づけ自体は、真の意志の中にパーソナリティーの意志が没し去った結果を意味するため、一般的な「苦痛に満ちた劇的な努力」という要素を全く伴わないのである。したがって、私はそのような集中を、「自然な集中」とこれまで表現してきた。

それはまた、実際にはより高位の力が為すものであるゆえ、方向づけ「られた」状態であり、ここにわれわれは、パーソナリティーの意志と、霊的意志そのものの違いを見出すことができるはずである。したがって、魂との合一は、魂の意志様相との融合を通して行われると表現してもよいだろう。そのような、導き引き上げる強烈な力をわれわれは内に見つけ出す必要がある。それはすでに存在しているが、見つけ出し、認識し、確認し、マインドがその意志へ自らを委ねる術と必要性を理解せぬかぎり、存在していないのと同じレベルの、ダイナミックではあるが精妙な意志である。

人間の次の意識領域

このような神聖意志は、われわれの行為の源となる個人の意志が魂の力に明け渡されたときのみ、見出しうるものである。だから、個人的な努力という誤解に気づいてもらいたいのである。個人的な目標という誤解、そしてその目標へ向かう個人的な行為という誤解、これらをしっかり見てほしいのである。個人の領域に、個人を超えたものがあると思うだろうか。理論上ないと思う弟子は、実際に個人の努力や行為から自らを切り離し、その騒動のなさによって、存在そのものへと焦点化し、融合できるのである。われわれの個人の思いや意志が活動せず、魂に休息したとき、われわれは「存在の状態」の美しさ素晴らしさを知るであろう。この領域が、人間の次の意識領域である。

神の意志

この意識が一般に広く浸透することは、神の意志と目的の一部に含まれている。奉仕とは、神の意志に資する働きに自らを方向づけることであり、世の人々が行う偽善に満ちた奉仕活動とは異なる。それは分離した自己が行う自己満足のための奉仕である。昨日の動画でもブラヴァツキーは同じことを言っているではないだろうか。神の意志をおのが内に見出した者は、あらゆる個人の意志や気分や好き嫌いを、神の意志に明け渡すことが奉仕になる。それは、あまりにも喜びに満ちた奉仕である。神の道とは、素晴らしいものであることを、われわれは奉仕によって、また奉仕に内包される愛あふれる意志によって、見出すのである。

だから道で躓いているならば、それは自分の道ではないですか、と質問したい。霊ではなく、個人の道を辿っているから苦しいのである。「道を辿ることができるようになる前に、道そのものにならねばならない」という格言がある。存在そのもに融合して初めて、神の意志という道を辿ることが可能になるのである。これが理解できるならば、「無一物のようで(犠牲)、すべてのものを所有しています(普遍性)」という言葉の秘教的な意味をも理解するであろうし、「イニシエートが考察し理解する意志とは、惑星ロゴスの意志つまり目的と一体になっているモナド本質のことである」という意味も、そして第三イニシエーションが最初のイニシエーションであり、道の始まりを示すとされる意味も、あるいは、以下の二つの引用をも理解し、その意味と意義を自身に適用できるか確認し、そのような考察と内的な思索が、かつて存在しなかった多くの啓示とイルミネーションをもたらすことに気づくであろう。

訓練を受けているイニシエートの姿勢は正しい霊的な動機――神性の意志様相つまりモナドの知的な遂行という動機――という姿勢になるべきである。そのためには、パーソナリティーの自我意志を魂の犠牲的な意志に没入させることが必要である。それを成し遂げたとき、それは聖なる意志の啓示につながるであろう。この意志について、イニシエートではない人はどのような概念も持っていない。

アリス・ベイリー「光線とイニシエーション上」 p.55

第三イニシエーションの後、イニシエートは意識には全く関わらず、自らの個人の意志と神聖な意志との融合に関与するようになるという事実を、あなた方は把握してきたであろうか。イニシエートはそのとき、接触の感受性を増大させることや、周囲の状態に対する自らの意識的な反応には夢中にならずに、大計画への奉仕という科学の持つダイナミックなエネルギーにますます気づきつつある。この違いを認識できるようになるのは、パーソナリティーと魂の意志が融合され、その混ぜ合わされた表現が神の大目的の燃える光の中に消え去ったときだけである。

光線とイニシエーション上 p.55
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