「遠隔」と人は言う。距離とは、目に見えている世界の話である。その場合、ローマとエルサレムは離れているなどと、場所と距離で物事を考える。しかし、世界はいつ生じたのか。意識が我々に起きた後である。夢のない眠りのとき、意識はメンタル界の高位亜界かそれ以上に焦点化しており、これは理由があって脳には記憶として持ち帰ることができない。意識が三界以下のものに順に降りて焦点化し始めたとき、相応に夢が生じ始める。物質界まで意識が降りてきたとき、夢から目覚め、我々は起床し、その後の世界を我々は現実の世界だとみなしている。それはただの物質界である。物質界は本質的にはメンタル界のイリュージョンである。しかし、三界のすべては意識の中に在る。厳密な言い方ではないかもしれないが、三界に限って分かりやすく言うならばその説明は許されるだろう。これが理解できる場合、場所というものは存在しない。赤貧の藁屋であれホワイトハウスであれ、裏庭であれヒマラヤ山脈であれ、私の中に在る。それは人でも同じことである。どの人間の形態も実在ではないがそれは私の中に在る。どの人つまりどの形態も私の中に在り、どの人の源も私である。これが理解できるとき、どこに場所や距離があるだろうか。どうして遠隔や分離がありうるだろうか。
「原因不明」と人は言う。例えば原因不明の咳に困っていると言う。医者が分からない場合、原因不明と呼ばれる。効くはずの薬で治らない場合、原因不明だとみなされる。そういう人が訪ねてきた。訪ねるとはこの世の話である。咳が出っぱなしで、眠ることもできないと言う。それで私の瞑想室にその者を入れると、かなり咳込んだ。それで、その人が集中しやすいように、つまり私を媒介とした治療に協力しやすいように、共に座り、必要な場所に私が手を当てて、「命の水の泉を価なしに与へん」とした。すると「呼吸が楽になりました」と言い、ずっと咳が出ないものだから、「治りました」と言って頭を下げてきた。私は治っていないと言ったが、「いえ、治りました」と言った。それは私の瞑想室で私のオーラ領域に直接的に居るからである。外に出て、また自分で気を乱す場合、咳が出るだろうと私は言った。その人は感謝して帰ったが、やはり咳が出はじめたと言った。とはいえ、「だいぶ楽になりました」と言い、「もう一度通ってもいいでしょうか」と言われた。その必要はない。同じ時間帯に意識を私に合わせて、つまり他の事柄に意識を向けないで協力してくれるならば、別にどこにいようが関係ないと答えた。すると、「遠隔ヒーリングでしょうか」と言われた。
私の中では「遠隔」というものはない。全部私である。私は治療家ではない。つまり治療のための訓練を積んだ者ではない。形態の世界での治療は、治療家の形態と治療を受ける者の形態が近いと効果的である。それは物理現象的な話である。私も気の流れを見やすい。患者もリラックスしやすく、また治療に協力的な姿勢を受け入れやすい。しかし、私は形態ではなく、患者も形態ではないため、本当はいわば共通の私の中で完結するはずである。あとは、いわば私が介された後の能力と、患者のカルマ的な限界や重病の度合いといった様々な要因が現象的な結果には関係してくる。だから「命の水の泉を価なしに与へ」ることは常に可能だが、形態の世界で必ずしも現象的に病いが治るわけではない。余命幾許の瀕死の者に対し、相応の理由もなく私の一存で治癒させて寿命を伸ばすといったこともできない。部分はあくまで全体の部分であり、部分は独立していない。人は個人のカルマに興味を持つかもしれないが、それは全体のカルマの近視眼的な解釈でしかない。重要なのは全体の――我々においてはこの惑星のカルマである。霊が物質に入っているのはそれゆえである。
この文章の目的は治療に関するものではなく、基本的にはイリュージョンに関するものである。今回の場合なら、場所や距離といった錯覚から話し始めている。それはこの世の話であり、形態間の話であり、その形態や世界といった実在ではない領域が我々に存在するようになったのは、意識が三界以下のものに焦点化し出した後である。意識がより高位のものに引きつけられている場合、我々が存在すると思っているものは何ひとつ存在していない。しかしどの意識領域や世界にも共通するのは「私は在る」である。「私」の定義が意識領域によって異なるだけで、にも関わらず「私は在る」は常に事実である。例えば自我意識の場合はこれを難しく考えてしまうため分からないだろう。それはマインドが邪魔してくるためである。だから長年瞑想しているような者は、マインドの沈静化に成功しているため、ただ私で在るということの素晴らしさ美しさ喜ばしさに精通している。彼らにとっては「私は在る」だけで十分である。
世界の人々は、神が何もしていないことにしばしば不満を抱いている。神と世界は、観照と行為、あるいは真我と自我の関係に似ている。我々の瞑想が観照になったとき、我々にとって形態の世界はそれまでのような意味や意義や存在価値を失う。我々はただ気づいているだけになる。つまり個人や個人の運命に対して気づいているだけであって決して何もしなくなる。ジュワル・クールの言葉を借りるならば、「モナドは神の第三の目のようなもの」である。この文章の意味に接近しうるとき、神と世界の関係についていくらかの啓明を即座に受けることが可能であろう。
我々が目を開けるとき、世界が事実になる。肉体を我として、世界の中に存在する一箇の個人になる。この意識は地獄である。不調和意識である。自由意志を彼は持つと錯覚するが、不自由意識である。そこには何の自由も平和もなければ神と霊に由来する美も喜びもない。このことに弟子は苦しむ。あるときは個人として生き、あるときは個人を超越した意識に入る。後者の持続を望むが、ある進化段階が達成されるまでは無理であることを理解する。彼は進化のスピードをコントロールできないことをやがて受け入れる。これはどの段階においても同じである。したがって、可能なときを逃さず可能な範囲で我々は瞑想することができるだけである。このような態度は、個人をやがて瞑想的なつまり魂的な態度に近づけるだろう。主導権が個人にあると主張しなくなるにつれて、より観照的になるだろう。当面は自我がうるさいだろうが、やがて静かになるだろう。しかし静かになりかけたとき、我々は、「死にたくない」と思うかもしれない。つまり、個人の死を恐れていることに気がつくであろう。「私でいたい」と思っていることに気づくであろう。この恐怖感はなにゆえであろうか。この恐怖、このしがみつき、この生への執着が真我実現の最大の敵である。その敵はむろん我々のことである。
