意識の断絶と回復

この課題とは、人間の注目の中心つまり焦点を正しく見定め、意識が主にどこに集中したらよいかに気づくことである。次に、その焦点をより高位の体に移すことができるよう、その人を訓練しなければならない。……つまり、この上なく重要と思われる体は、それよりも高位に位置するものの単なる道具になったとき、二次的な重要性しか持たないものになることができ、しかも、そのようになるべきであると。

アリス・ベイリー「新しい時代の教育」 p.30

平均的な人類はアストラル体に意識の焦点を置いている。よって現代の教育はより高位の体である低位メンタル体を鍛えることを主軸としている。次に、低位マインドが意識の焦点になった場合(メンタル偏極した場合)、魂つまりコーザル体が次の主要な意識の焦点になる必要がある。こうして低位マインドと魂の間にある意識の断絶が修復されたとき、「一体化」や「合一」などと呼ばれてきたものが起こる。

知的な人が必ずしもメンタル偏極しているわけではない。むしろ、多くの知性つまり鍛えられた低位マインドは、アストラル体に条件づけられ、個人の欲求や感情や気分といったものに支配されており、それらの願望を満たすために誤用されている。知的であっても、例えばその者の生涯が、個人的な富の蓄積や個人的な優越感の拡大、もしくは劣等感の穴埋めに向けられている場合、彼の主人はアストラル体の質料つまりフォースであって、メンタル体ではない。

メンタル体が意識の焦点である場合、彼は欲求や情緒を知性によって統御することが容易になり、アストラル性質に屈することが激減する。彼の特徴は知的な冷静さである。動じない人間、動じる人間を助けるリーダー、感情や利己主義に左右されずに適切な決断を下すことのできる度量の大きい果断なタイプの人間として信頼され頼りにされるだろう。したがって彼らは世の中で群を抜いて有能であるが、自身が完全には程遠く、したがって完全であるために必要なことを達成する責任があることを認識している。その責任とは、意識の焦点を次に低位マインドから魂へと移行させることである。彼らは明らかに魂を認識しており、パーソナリティーと魂が合一しなければならないことを意識内にて知っている。

以上のように、低位から高位へと意識の焦点を段階的に高め、かつて意識内にて感知されえなかったものを感知するようになり、着実に新しい高位の波動をそれまで焦点化していた低位の体つまり質料たちに賦課し、点から点へと意識を拡大し、人間の表現が行われる三界においては、個人と魂との一体化を生じさせることが最初の主要な目標になる。もし個人のマインドが魂に服従するようになるならば、徐々に彼は非人間的になるだろう。なぜならマインドはその活発な変異を止め、高位の何か、言語の埒外にあるものへと溶け込むからである。そのため、彼を支配する特徴は喜びや愛、そして沈黙と平和になる。それは、それまでの自分や世界という錯覚を起こさせていたマインドがもはやかつての線に沿って機能していないからである。低位マインドは高位マインドに席を譲り、それがやがて直観へと導く。

高位マインドを媒体として用いる直観体(ブッディ体)が組み込まれる時が訪れようとしている。その組み込みが完成したとき、低位具体マインドは伝達者、つまり解釈者以外の何ものでもなくなるであろう。抽象思考や具体思考でさえ取って代わられることになる。そしてマインド・スタッフを使って形態をまとう直観の流入だけが経験されるようになるのである。

ホワイトマジック上」 p.164

瞑想はマインドの動きを統御するものである。言い換えると、瞑想者である魂がマインドを統御する。これを知らない場合、個人つまりマインドでマインドを統御しようと試みることになる。平均的な瞑想者は、この種の危険を伴う努力を行っているのである。魂がまだ、肉体やアストラル体やメンタル体に意識を焦点化しており、「私」がまだ個人を指しており、分離した個人の感覚でその個人を扱っている。これが理屈の上でも経験の上でも無意味であることが知られるべきであり、我々は低位我を構成するどの体とも関係がないという意識に入りゆかねばならない。そのためには、個人として何もしないことである。しないようにしようとすることも違う。だから、個人を「しない状態」にさせるのは魂であることを知り、どうすれば低位我が高位我に黙従するようになるのか、その基本的な理屈が知られ、知った上で必要なことが実践されねばならない。実践とは瞑想であり、瞑想的な生活つまり表現である。

これらを理解するとき、実践の問題が主に波動の問題であることが分かるだろう。高位我との意識の断絶がなくなるまでに、低位我の諸体の波動を高めることがただ必要なだけである。高位の波動つまりエネルギーを、それまでの自分である低位の体に適用し、そのリズムを課すことが基本的な仕事である。生活するためにお金を稼ぐことが仕事ではない。自身や家族を満足させることが第一の責務ではない。我々が個人であるならば、個人のために仕事をするだろうが、我々がより高位の何かであるならば、より高位の職務という概念を自らに導入し、その仕事に責任を負った生き方を始める必要がある。そのようにすることで、我々は徐々に意識を高め、導きのもと前進し、整列し、融合し、合一し、一体化し、高位の体が我となり、分離という大いなる異端は消滅する。イニシエートはこのような初歩的な職務を完了しており、弟子はこれらを意識的に実行中であり、見習いの弟子はこれらの概念を着実に自らに学び入れようとしており、普通の人達はまだ何も知らずに迷っている。すべての兄弟姉妹が助けられねばならない。無用な苦しみや悲しみや恐怖を根絶するのは、人類の先駆者たちの働きにかかっている。

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