一つの意識がある。現象面の肉体は様々であり、その一つを介して、意識が意識に語っているのであり、魂が魂に話しているのであり、外側の個人が個人たちを念頭に書いているのではない。これを読む人がどういう人かについてはまるきり関心がない。個人がどう解釈するかは、諸体の精練具合に左右されるが、本来なら言語ではなく直接的な交流、魂による魂への直接的な影響力の行使が望ましい。なぜなら、錯覚に陥っているのは個人ではなく魂だからである。錯覚に陥った魂が個我つまり本来の意味におけるエゴであり、個人である。
嫌いな人がいるとする。彼や彼女を愛そうと修行者は言う。怒りや恨みや妬みからではなく、何とか正しく美しく接することができなければならないと感じている。どうして、自我が、他の自我に対してそんなことができるだろうか。焦点を合わせているところが違うと言うのである。我々は魂において分離していないのである。これを我々は愛と呼んでいる。外側で外側を愛そうではないことを知らねばならない。それは無理である。すぐ怒る自分、破壊的な思考や感情を抱く自分、これらをどうにかしようと個人はあがいているが、そうすることでむしろ問題となる対象を強めている。自分を個人と思っているから、他人も個人と思い込み、個人が個人に正しくあろうと考えるのである。現象という結果の世界に囚われた魂の錯覚である。
自我の努力を否定はしない。そういう段階を経て、人は行為者が自分ではないことを理解するのだから。言い換えれば、特定の肉体に宿る魂つまりエゴとかジーヴァとか呼ばれる意識単位は行為の目撃者でしかない。行為と観照との間には完全なる隔絶がある。これが孤立した統一である。何とも関わらないことで、すべてと合一するのである。この境地を愛と言っている。外側人間の行為は、その顕れでしかなく、本質的ではない。結果ではなく原因と関わるべきである。現象ではなく本質とのみ友情を育むべきである。
いま我々は、物質を信仰している。肉体が自分だとか、肉体の健康や安楽に執着したりだとか、肉体を危険にさらす戦争や貧乏や災害などから逃れんと恐怖に取り憑かれていたりとか、あるいは精神やプライドを満足させるものを求めたり喜んだり、逆にそれらに脅威を与えるものを敵や憎悪や逃避の対象と見なしたりだとか、完全に肉眼で見える物質の世界に魂が巻き込まれている。その状態が自我意識であり、個人という感覚である。これは責められているのではない。そういうものだという話である。あなたはその話に夢中であり、話とは関係のない真実に目覚めんとしているところである。そのために瞑想し、一時的な諸体ではなく、本質的な自己である魂つまりコーザル体に諸体を整列させようとしているのである。それによって、自身がすべてのものの魂つまりオーバーソウルと呼ばれる普遍意識に統合されんとしている過程を目撃しているのである。
だから、結果としての個人に注目を注ぐ時間を一秒でも長く控えて、瞑想に全委任し、すべてを預け、また錯覚の所有物をいずれも返還し、自己つまり魂と純粋に接触し、それそのものとなり、霊つまり真我を全一体として、愛として知らねばならない。頭で考えても無理。思考は物質の誘惑であって霊の輝きからの転落である。自分は無理だとか、自分なら出来るとか、くだらない想念はいずれも無視し、すでに達成されていることを知ることで個人の霊的な欲望から自由な境地で、求めるものなどないことを知り、ただおのれとは無関係であるものに無関心さを抱かせる魂を瞑想で知り、純粋に存在するだけである。なんら行為ではない。なんら才能ではない。なんら修行ではない。真理において、自我を努力で競争させたり、不平等によっていじめたり、優劣をつけたり、苦しめたりするものはないことを知ってもらいたい。偽の我は所詮は偽。どこまでいっても嘘と錯覚。耳を貸さず、また何も求めることなく、そうすることで自我を超越させる真我と出会うべきである。