……これはいずれの場合においても、質料によって限定され閉じ込められ支配されているある存在の意識状態である。私は「形態」と言わずに「質料」と言った。なぜなら、長い、非常に長い表現周期の間、霊を支配するのは質料だからである。支配するのは物質ではない。粗雑な物質は常に、エーテル的な性質を帯びた、つまり形態ではなく秘教的に質料と見なされるフォースによって支配されているからである。
アリス・ベイリー
自我意識が優勢なとき、人間は魂に対して陰であり、魂のエネルギーに対して客体であると感じる。魂に癒やされる者、正される者、恩恵を授かる者として、自我は魂への愛着を育てる。それ以前は、自我は自我として努力するだけである。しかしながら、自我が魂との関係を深めるにつれ、立場は徐々に逆転し、魂が私になる。そのとき、人間は魂として、それまで自身であると思い同一化してきた物質質料に対して意識的に働きかけることができるようになる。ここが、神秘家と秘教徒の最初の分かれ目であるように思う。神秘家は意図的ではない。何をしているのか、何が目的なのか、何が起きているのか、これらは分からない。秘教徒は意図的である。以前の自身を構成している質料に、エネルギー自体である私として働きかけているか、そのような力がふるわれていることに気づいている。人々は世界という想念の中に生きているが、秘教の学徒はそのような想念も含めた物質の質料つまりフォースに働きかけ、低位の振動率に高位の振動率を賦課し、フォースをエネルギーに変性させようとしている。このようにして、弟子は意図的に、受け持っている自身の諸体の質料を高め、それによってより偉大なるものに感応できるように諸体を磨き上げている。これが贖罪の真の意味であり、罪とはその質料のカルマのことである。
「カルマに染まった」質料を使って、我々の肉体を含め森羅万象は形成されている。このような形態は、どれも材料である質料に条件づけられているだけである。人間もまた、ただ諸体のフォースに条件づけられている。質料とフォースは本質的に同じ意味である。あるとき、今でもはっきり覚えているが、大学へ向かう途中、赤信号に立ち止まっているとき、フォースさえ統御できれば問題ないことに気づいた。それまでは、出来事や運命に問題があり、外側に苦痛の原因があると思っていたが、まるきり関係なかった。簡単に言えば、受け止め方に問題があるだけだった。しかもそれは秘教的な受け止め方である。条件づけようとするフォースだけが問題であり、そのフォースを上から変性させることができるならば、何が起きても私は無傷であり無敵であり不動であることを理解した。
例えば感情。激昂しそうになるとき、本当にそうなのか立ち止まるようになった。激情へと駆り立てんとする力、フォースを立ち止まって見ることにした。本当に私を条件づけ動かす力があるのかどうかを見た。私つまり魂の地位もしくは位置からフォースを見、高位のエネルギーとして対象のフォースを見るとき、「エネルギーは思考に従う」というオカルトの基本公理に支えられた「見る」という注視のなか、その力があるかをただ見た。すると無力だったのである。見ただけで一瞬で高位のエネルギーに低位のフォースは変性される。激情は本物ではなかったのである。それを見さえすれば、それは存在しておらず、それ自体には何の力もないのである。
とはいえ、自分には統御できないフォースも存在することに気づかざるをえなかった。これに関しては、魂と融合を深めるよりほかに方法はなく、地味に地道にゆっくり、瞑想を通して前身と後退を繰り返しつつ螺旋状に意識が上昇するプロセスをただ歩むだけだった。と同時に、この(当時としては)革命的に思えた手法や知識を周囲の誰かに伝達したかったが、全ての初心者が辿る道ではあるが、私もこれには失敗し落胆した。そして、どの兄弟姉妹もそれぞれの道を歩んでおり、みだりに、つまり強引に助けようとすることはできないことを学んだ。徐々に病気を治せるようになったり、痛みや苦しみをとってやることができるようになったときも、それを必ずしもしてはならないことを理解した。病気であれ悩みであれ、それが必要だからその者に起きていることを理解せねばならなかった。したがって、どのような聖者であれ、介入できるのはカルマの許す範囲内である。
最も助けることができるのは、真我である。第三イニシエーションを受けるまでは魂である。自我がこれらを肉体脳で認識し、目覚めた状態で接触し融合できるようにすることが第一である。なぜなら、自我で自我は助けられず、低位我を引き上げるのは高位我だからである。高位我を認識するためには、普通は瞑想という手段が取られる。しかし、瞑想は一日に何時間もさせてはもらえない。せいぜい、本当に必要な時間は一時間とか二時間だと思う(最終的には長くなる)。しかも実りのある時期と実りのない時期を繰り返すことになる。長く瞑想する人もいるが、長時間瞑想は無意味であるか、自身に損傷を加えるだけであり、また深く入る機会を失わせる。日常でしっかりと義務を果たしつつ、その合間に瞑想すべきである。自我は何もできないが、瞑想を続けるならば、必ず高位我の方からやって来る。そして自我に教え始める。
パーソナリティーのエネルギーは魂のエネルギーよりも一般の人の生活を条件づける上で遥かに強力である。魂のエネルギーは永劫にわたってその顕現点であるパーソナリティーを効力を持って掌握しようと試みてきたが、転生周期のかなり後半まではそうすることに失敗してきた。しかし、結局のところ、魂のエネルギーの効力は、パーソナリティーのエネルギーよりも果てしなく強力であるが、永劫とも言える長い年月の間、魂のエネルギーは三界において反応を示す諸体を欠いていた。
「秘教治療 下」 p.241
瞑想により、質料の等級は高められ、高位亜界の物質が諸体に加えられ、「反応を示す諸体」に仕上げられるようになる。後は、リズムの法則に従い、諸体の低位のフォースに高位のエネルギーを賦課し、意識的に変性の過程を、日常の中で送ることである。どのような低位フォースも本当の意味では力はない。これに関しては以下の文章に明確に示されている。
フォースとは、何らかの形態――肉体、界層、器官、センター――内に限定され監禁されたエネルギーである。エネルギーとは、これら監禁されたフォースに、より大きくより包括的な形態内から、より精妙な界層から衝撃を与えることで、より粗雑な波動のフォースと接触する方向づけられたエネルギーの流れである。エネルギーは、それが衝撃を与える接触するフォースよりも精妙で強力である。フォースは強さにおいては劣るが、固定されている。この最後の言葉に様々なエネルギーの関係という問題を解く鍵がある。自由なエネルギーは、固定された接点という観点から見ると、すでにそこに固定されているエネルギーよりも(一つの限定された領域内においては)いくつかの点でその効力において劣る。それは本質的にはより強力であるが、効力はない。このことについて熟考しなさい。
「秘教治療 下」 p.241
低位我で生き、自身を肉体とみなして生活するならば、存在しないものに振り回されるだろう。目を覚まさねばならない。何も実在ではない。高位我と接触したならば、自分が何者なのか忘れないことである。その肉体とは何の関係もない。あなたの想念や信念や思想や確信とも何の関係もない。あらゆるものに関係なく、我々は真我である。したがって、絶えず融合を維持することが必要になるだろう。どっちが自分かを忘れず、常に意図的に低位質料を扱わねばならない。そして秘教的に疲労したならば、大いに休息を取り、意図的に自我で生活することも必要になるだろう。ただし、あまり波動を落としすぎない程度に意図的に落とすべきである。したがってこのような不安定な時期には、依然として定期的な瞑想が必要である。やがて疑念はなくなるだろう。世の中では瞑想の方法にばかり焦点が当てられているが、そのようなことに関心がある低位我も、やがては高位我を認識し明け渡す術を学ぶだろう。高位我が方法であることに気づくだろう。高位我だけが真に力である。そして、低位も高位もなくなり、一なる根源が訪れるだろう。