愛との遭遇

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悪について

惑星の目的が何であるかは私には分からない。目的の一部は光と愛をより広い宇宙に解き放ち、太陽系を宇宙の悪による攻撃から自由にすることであると言うならば、私は真理を述べているが、完全な目的に触れたことのない人々にとっては依然として無意味なままの真理である。それは神秘のままである。というのは、光の真の性質、電気の神秘、真と善と美の構成、悪の起源、ブラック・ロッジの性質と目的、神の存在計画においてブラック・ロッジが果たす役割、それらの本質的な意義をあなた方が知ることはできないからである。

アリス・ベイリー「光線とイニシエーション 下」 p.380

人間は、完全に物質でも完全に霊でもない中間に位置し、意識を通して物質の霊化に携わっている。なぜ、霊的な高位のエネルギーと、物質的な低位のエネルギーが衝突し合っているのだろうか。我々が瞑想で波動に精通し、それが愛ある知的な意志をもっていることを確認し、またそれが働きかけようとしている対象を知り、そのエネルギーの媒体ないしは伝導体となり、その意志に自らを従わせることを学ぶとき、退化へ向かおうとしているフォースが存在すること、そしてその役割を考えるとき、完全に理解することはできず謎である。

低位の鞘(肉体・エーテル体・アストラル体・メンタル体)を構成する生命、人間を支配するエネルギー単位
1原子や細胞と呼ばれる微細な生命たち。これらが人間の四つの体を構成している。
2この生命たちの集合つまりエレメンタル。それは地・水・火・空の四元素として知られている。
3これらの総和つまり低位我を支配する月のピトリ(主)。

進化するフォースと退化するフォースが存在し、人間は大なり小なり後者に支配されているが、それを前者に従わせることに成功したとき、三界における転生周期から解放される。我々が魂として低位生命に携わるとき、それらを衝き動かすエレメンタルのフォースは、破壊、抵抗、暴力、不調和、盲目的な力として働いていることを確認する。一方で、魂のフォースは引き上げる進化の力に従っている。そして、魂の力を見るとき、その力の表現が愛であり、悪に対する高位の薬理学が愛であり、進化した存在の戦い方が愛であることを目の当たりにする。なぜなら、人間が魂と接触したとき、彼や彼女は完全に愛に包まれるからである。

愛の体験

昨日、双子のように親しい妻の友達が家に来て、半ば興奮に包まれたまま、私に何かしたかと聞いてくる。彼女が訪ねくるまで、私は瞑想していたため、何もしていない。この者は、最近は仕事のことで悩み苦しむあまり、病気になりそうだったから、何回か治療をしていた経緯がある。

今しがたスーパーで買い物をしていると、いきなり違う意識に入ったと彼女は言う。この人は瞑想をしたことがなく、霊的な知識も興味も持っていない。しかし彼女は「解放された」と表現していた。すべてが美しく素晴らしい。今なら何でも誰でも、また何をされても何が起ころうとも許せるし、それを美しいとしか思えない。惣菜すら美しいと言う。抱えていた何もかもが消え失せ、スーパーにいる人、ある物、ここに時間もなく、愛として一体だったと言うのである。それに驚いたため、数秒でその意識は終わったが、余韻がながく続き、偶然かもしれないが、スーパーの中ですれ違うどの人も素晴らしい表情、笑顔、良い人たちばかりであり、それが喜ばしく嬉しかったと言うのである。で、あれほど気持ちいい体験はないから戻りたいと言う。その体験が「グラデーション」で消える間際に私が見えたから、私が何かしたのだと思って飛んで来たと言うのである。

人間は、もっと深い愛に入れる。それは霊的な努力と関係なしに、すでに存在している進化のエネルギーである。進化の側の意識から眺めたとき、どこに敵が存在しうるだろうか。この者は、ニコラス・ケイジの歯を見るとうけるというのである。「マッシブ・タレント」というコメディ映画の話を妻としていて、二人でケラケラ笑っているから、何がマッシブなタレントであるか、それは愛の喜びであると言いたくて、多くの読者の方を混乱させた先日の記事を書かざるを得なかったのである。愛は今ここに実在し遍満している。天と地の境目をなくし、溶かし、輝き、何もかもを美しく咲き誇らせている。悪が唯一かなわないものが愛である。怒りがいくら愛に攻撃しようが、のれんに腕押しである。いかなる悪も愛だけには勝てない。攻撃は最大の防御などと言わないでもらいたい。それは恐怖に屈した者が言うセリフである。愛が最大の攻撃であり防御であり守護であり恩寵であり知恵であり喜びであり……明日まで言葉を並べられるが、苦しみに錯覚させられている全員に、愛が今、現実になる必要がある。それは誰にでも可能なことである。

ひじょうに驚くべきことだが、愛という意識状態がある。意識がそれ自身、愛の主である魂と同一化したとき、それは現実のものとなる。探求者は「内」と頭で考えるが、愛は「外」なのである。自分の進歩や自分の解放といった利己的な内に引きこもらないときのみ、なぜかこの霊的な外へ向かうタレントが発掘されるのである。これほど美しいタレントがいまだかつて存在しただろうか。それはわが内に存在するが、外なのである。それは一体であるゆえ、すべてを駆け巡っている。その中に意識が入るとき、これはもう誰でもファンになる。それは世の中で言われる愛とは何の関係もがないが、それを知ったとき、これが愛なのかと分かる。彼女は、愛という言葉より解放という言葉を繰り返し述べていた。愛は明らかに解放である。すべての重荷をいちどきに溶かす。すべての敵意、悪意、恐怖、破壊といった悪が使う手法を無効化する。しかし、また元の自分に戻って苦しいと言うのである。高位の意識を知る代償は、それより低位の意識が苦痛になることである。だからさっきの意識に戻りたいと言うのだが、なぜか瞑想してくれない。このように、タレントはあるのに瞑想しない愚かな姉妹方も存在するのである。霊的に真剣な者には何も訪れず、ニコラス・ケイジの歯を見て笑っている何も努力していない者になぜ愛が訪れるのだろうか。それが謎であってはならない。

愛を考えたり、教化したり、実践したりすることはできません。愛や同胞愛の実践は、依然として精神の領域内のことであり、それゆえ愛ではないのです。こういうことが全て止まったときに愛が現れるのです。そのとき愛は量ではなく質の問題なのです。あなたが一人の人間を愛することを知ったとき、あなたはすべてのものを愛する方法が分かるのです。あなたが愛しているときには一も多もないのです。ただ愛があるだけです。私たちの抱えている問題が解決されるのは、愛があるときにかぎるのです。そのとき私たちは愛の喜びを知ることができるでしょう。

クリシュナムルティ「自我の終焉」 p.343
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