努力とは利己主義である。誰にとっての都合によって、努力が為されているのだろうか。この努力をおこなう行為者から離れなければ、我々は美しいものを知ることができない。存在しない偽りの自己のために為される行為は美の殺戮者である。行為という錯覚の犠牲者である精神たちに、気づかれることなく、内から慈悲と憐れみの眼差しが注がれている。この目は美しい。この目は純粋である。そしてこのお方が真の私である。彼女の力がやってきますように。歩みを進める探求者たち、おのれを所有せざるを得ない十字架の精神たちは傷つき疲れ果てている。拠り所が必要である。彼が背負っている十字架は、いま彼の背中から、彼の背後から彼に重くのしかかっているが、彼が十字架を背負うのではなく、彼と十字架が互いに向き合い、背負うのではなく抱擁になるまでは、重荷は永遠に彼におぶさるだろう。そして彼は重荷を忌み嫌い、重荷から逃れるべく、重荷を背にして生の行軍を続けるだろう。重荷は、主に、返さなくてはならない。艱難辛苦を与える重荷から目を背けることをやめ、重荷が自らの双子であり、兄弟であることを知り、それは避けるべきもの、逃れるべきものではなく、愛の対象にならねばならない。なぜなら、この重荷は私に抱擁されることで、神聖になり、私になるからである。抱擁し、愛し、引き上げ合一しないかぎり、重荷は永遠に我々に敵対する。
努力とは逃避である。それは一体性の殺戮者である。分離へ向かわせる悪魔である。我々は努力してどこへ向かうというのだろうか。何を目指すというのだろうか。このような行為をさせるもの、動かしているものに動かされること、このめしい、この無知を都合良しとして飼いならす力の主は誰なのか。我々は誰に動かされ、誰に仕え、誰に利用されているのだろうか。長いあいだ、我々にとって、このような物質の力が悪である。この力に度を超えて屈し、魂を失くしたものが悪魔として知られてきた。この世の悪人がみな例外なく犠牲者であるように、このような力もまた、ただ無知なのである。悪は解釈であり、悪はすべてが一つであるという真理を阻害するものであってはならない。悪が無知ならば、その悪が知らないものとは愛である。そして我々が愛を知り、愛に生きているかぎり、悪は恐れる対象ではない。なぜなら、恐怖は無知の産物であり、その無知は愛によってのみ癒やされるからである。したがって、愛は無恐怖である。
探求者たちの苦しみの声が今日も止むことはない。我々は修行者たち、誰かの弟子に落ちぶれている者たちの、悲惨なまでの苦悩のうめきを聴き続けている。しかし、その苦悩は経験されねばならない。その苦悩なしには到達できない。苦悩は人間の精神をぎりぎりまで追い詰めるが、自殺するならばその苦悩は引き続き追いかけてくるだろう。本当に解決したいならば、自殺すら許されないのである。つまり、勇気をもって向き合わねばならない。これは努力だろうか。絶対に愛である。
抱擁が努力であるならば、それは偽りの愛である。背を向けることが意味をなさなくなり、直面すること、面と向かい合うこと、怖いものを見ること、真実に立ち向かうことは、努力では為しえない。努力する者はけっして愛を知らない。我々が行為者、努力する者であると錯覚するのではなく、努力や行為と関わらず、つまりそのような行為へ動かそうとする低位の力を、まさに高位の力によって包含するとき、いわば魂と個人は一体化する。抱擁は完結する。人間の愛とは何の関係もない、本当の愛が知られ、すべてが愛であることを知る権利を与えられて、これまで一度とて知ることのなかった愛が許される。どれだけこの世で罪を重ね、人に嫌われ、自分からさえも愛されてこなかったとしても、愛に値して良いこと、愛であって良いことが知られ、我々は愛に裸となる。すべてが愛に返還され、いっさいが美であり完全であるさまを愛のうちにて知る。すると人間はどうなるか。愛の伝導体にして、愛の伝道が生命として存在としての生き甲斐となる。愛だけが、生きるに値する喜びになる。
努力は限定へと向かわせるが、愛は無際限に自由である。我々が悪と呼ぶ力や勢力は、我々の善意や善に促されたアイデアをそのまま利用し、隠れ蓑にする。一見すると良いものに自らを隠し、我々を誘惑し、錯覚させ、笑顔で谷へと突き落とす。なぜ世の中では努力が美徳なのだろうか。努力つまり努めさせる力の源を確かめた人はいますか。行為は観照に、観照は存在に席を譲らなければならない。唯一なる存在はどこにも向かえないし、我々をどこにも向かわせようとしていない。目で見える物や者は、彼の三次元の目においては動いているかもしれないが、彼の源、つまり真我は不動である。この世で、何かへ向かえ、別の何かになれと脅迫してくる人は誰ですか。その人が怯えているものは何ですか。なぜ不動が動に使われねばならないのですか。重荷よ去れ。サタンよ去れ。悪の治療法は愛である。悪がまぶしく耐えられない光は愛である。そして我々の本質は愛である。どうして愛がすべてを抱擁し包含しないでいられるだろうか。愛は選り好みから自由である。偉大な存在は、「向かうところ敵のない愛」と表現したではないだろうか。愛は恐怖を知らない。愛は分け隔てることを知らない。愛はすべての恐怖を癒やし治療する。
自我の時代は、一時的にこの愛から阻害されたように感じ、何も分からないし、何もかもが苦しく、闇へと孤独に放り込まれる。このようにせずして、どうして強くなれるであろうか。この闇を経験せずして、どうして弱さという無知を救い、強さという愛へと連れ帰りうるだろうか。われわれの現状には意味がある。やがて内なる世界に入るとき、この意味は不要になる。意味は頭の時代に支えになるが、存在の世界に意味はいらない。愛に意味はいらない。自我の時代にどうしても努力が必要だという意味は理解するが、努力するよりも、努力という重荷を見てもらいたい。努力させる力に理解を与えてもらいたい。われわれに努力させるこの世の力ではなく、本物の力を瞑想という手段を通して着実に内に培い感受し流し込むとき、この力がまさに愛であり、強さとは愛であり、無恐怖とは愛であり、この愛の力がまさに万物に必要とされていることを知り、愛にわれとわが身を委ね生きねばならない。もう行為者はなくなるだろう。もう努力はなくなるだろう。重荷は知恵によって「上げられた」のである。このようにして、愛は万物の神になる。