愛に生きる

人が分離した自分を理解のなかに抱擁し、溶かし、自然へと還すとき、理解され圧倒されるのは愛ではなかろうか。自我を霊的な世界に惹きつけるためには、至福や喜びや解放が、個人と関連づけて強調されるかもしれない。しかし、瞑想は自我に愛の美しさを教える。世界は混沌としているように見える。これを癒やすのは愛しかないことをわれわれ人類は学んでいる。世界がその異常さに苦しんでいるのは、われわれが分離という錯覚に苦しんでいるからである。人は愛されたいという。人が真に自分のことを気にかけなくなったとき、愛は訪れるだろう。愛は個人に限定できない。それは分離と波長が合わない。だから瞑想者が愛に包まれるとき、彼は愛だけが重要だと結論づける。これ以上の美はないことを愛が理解させる。そして愛し抜くこと、愛で在ること、愛を表現することが愛の願いとなる。

われわれは瞑想するが、何かに囚われている。それは自分である。これを一番破壊するのは外へ向けられた愛である。そして愛の主は自我ではなく魂である。自我は愛そうと努力するが、真の愛はもうすでに充満している。波長を合わせるのは、個人的な動機から為される愛という行為ではなく、全存在そのものに満ち満ちている遍満の愛である。しかし肉眼の世界では、愛の上に、まさに怒りや憎しみや恨みや独占欲といったものが映し出されている。この波長はわれわれを壊す。どのような兵器よりも壊す。

愛に生きる者は、霊的な願いに支配されない。なぜなら、霊的に困窮しなくなるから。愛は、愛でないものへ向かう必要性をなくす。愛と関係がないものは重要なものではなくなる。われわれはいつか、愛であることだけが重要になる。愛であるかぎり、何もいらないことを理解するのである。そして、この愛が、愛そのものの中に秘められている宝珠、つまり唯一なる真我をわれわれに啓示するのである。

しかし愛について書くと、あまり読まれないようである。それはなぜだろうか。病気が特効薬を恐れるのと同じ意味で、自我は愛を恐れている。人は小我にしがみつくことで、全我つまり愛を排斥している。すべてのものを愛することより、自分を愛することに決めているのである。もしくは、自分が求めるものを愛することを優先事項と見なすよう間違って脅迫されている。こうして自我に閉じ込もっている。全的な愛と接触することを恐れ、愛に怯え、愛として表現される真我と波長を合わせないようにしている。愛であっても良いことを自我は受け入れる勇気がいる。

個我に限定する癖を直すことである。心をオープンにするのである。内ではなく外。人々の心の鏡には、自分の悩み事や欲望などしか映っていない。だからこういう世界が反映されている。そういうものを無視することで、愛が流れ込んでくる。この肉体や心に自分を限定しないこと。われわれは毎瞬、この今も、自身でおのれを小我に限定している。一切に注意を向けず、それによって支配されたり捉えられたりすることなく、自身を自然つまり愛に解放してやるべきである。自我は自分のふりをして誘惑し、騙そうとしてくるだろう。それを乗り越えて、愛に広がるべきである。そのとき、すべての傷は癒されるだろうし、すべての傷を癒やしたいと願うだろう。強烈な愛。これが開放されたわれわれの心、全存在に注ぎ込みますように。

目次