愛のマスター

人間の成長は他者に対する態度と、彼らに対する影響によって決まることが分かる。このようにしてグループ意識への回帰が引き起こされ、カルマを生み出したり相殺したりする。

アリス・ベイリー「魂の光」p.385

人間は通常、他者に対してどのような態度であるべきかを重視する。それも重要ではあるが、他者とは何なのか。それは、彼や彼女の肉体であり、そのパーソナリティーである。私は、形態様相を無視するように訴えかけたい。グループ意識すなわち非分離の意識の秘訣は、非リアリティーの無視にある。私は、誰かが男だろうが女だろうが、あるいは強面だろうが美人だろうが、何の興味もない。「神は御自分にかたどって人を創造された。 神にかたどって創造された。 男と女に創造された。(創世記1章27節)」。形態の姿かたちは多様であり、神にかたどったものであるかもしれないが、かたどった神は形態の背後におられる。個人は全く重要ではなく、自我やパーソナリティーも重要ではなく、最初に我々は、自身である魂に到達することを通して、彼らの背後の魂に到達しなければならない。それは誰かの内側にあるのではなく、すべて我が内に存在する唯一なる魂のことである。

対人関係は、常に我々の問題である。特に偶数光線の方はそうであろう。しかしながら、それは自身を形態と見なしているがゆえに、他者もまた形態だと見なしていることが根本原因である。誰かの魂と私の魂は本質的には同じものである。すべては我が内に存在する。したがって、自身の内側から、彼らの形態様相を無視して、彼らの魂に注目を向けるならば、その場でいわば魂同士の連結が瞬時に確立され、我々自身がどれだけ魂と融合しているかに応じて、彼らの魂にどれだけ良い影響を与えうるかが決まるのである。これが真の対人関係である。

たとえ嫌な者が嫌な表現で我々に応じる決意をしようとも、彼らは基本的に、何に動かされているのかも知らないのだから、ただ無知の犠牲者でしかない。瞑想者は、形態を動かす初期段階の様相であるアストラル界とメンタル界のフォースを魂によって統御する術を習得する。アストラル体を統御したとき、大なり小なり愛と呼ばれる偉大な神性に到達し、驚愕する。魂の、この愛の様相をどのような(人格的に)病んだ者にも向けることができ、彼らの魂を支援することができるのである。これを知らない者は、悪意や憎悪を向けられ表現されたとき、彼らを許せないとか、仕返しをしてやろうという気になる。つまり同じような悪質なフォースに条件づけられるだけの無能な存在へと堕す。そうではなくて、我々が愛であるならば、何が起きても惑わされず、彼や彼女のパーソナリティーに惑わされず、形態に惑わされず、表現という結果に惑わされず、魂として、我そのものである彼らの魂に愛で働きかけることができるのである。

簡単な練習法を述べよう。目を瞑る。自身の魂と整列し融合する。特定の者を思い浮かべ、彼の形態やパーソナリティーの様相を無視して、その背後の魂を、自身のハートで、自身の内側に感じるように試みる。このようにして、私と彼か彼女を愛で混ぜ合わせる。こうして、悪意に色づけられている者に、まさに祈願的に働きかけることができるのである。

愛し、愛し、愛し抜くことである。パウロがエフェソの長老たちに語ったように、「受けるよりも与える方が幸いである(使徒行伝20:35)」。多くの個人が、別の個人たちに好かれよう愛されようと苦心しているが、我々はそのような願望つまり嫌われることへの恐怖から自由になり、分け隔てなく、愛されるよりも愛す方が幸いであることに早く気づかねばならない。愛したときだけ、我々の内なる愛は輝きを増し、またその愛の精神と意識は維持されうるのである。愛は完全に循環されねばならず、神の愛を独り占めできる者は一人とて存在していない。

嫌いな人への対処法は愛することである。それは一般的に言われている愛そうという努力とは意味が異なる。私も長く自我であったため、嫌いな者は愛せなかったが、この激しくも荒々しい気性は、瞑想によって愛へと変換され、人々からの愛ではなく、神の愛に包まれたのである。そして愛とは、分離なき意識を理解させる原理でもある。そして真の愛は、このすべてとの一体性が根幹になければならない。

第二イニシエーション後に、弟子はオカルト的な意味でカルマを研究することになるだろう。なぜなら、残っているカルマに関する知識と、新しいカルマをいかにして作らずに生きるかが重要なテーマになるからである。そしてあまり知られていないのか、あるいは話題にあまり上らないだけなのか、カルマの相殺について聞くことは少ない。作った悪いカルマは、善い行いによって相殺できる。愛すること、無償で助けること、分かち合うこと、親切であり続けること、これらは魂的に喜びである。このような表現へと魂はさらに上から条件づけられている。個人の意志が魂の意志に置き換えられるとき、我々は、到底言葉では言い表しえぬ愛と喜びにオーバーシャドーされる。そのためには、瞑想によって諸体を統御し、また正しい日常生活――正しい思い・言葉・表現を心がけることで不純を削ぎ、純粋なる精神に魂を呼び込み、愛の表現体として、過去の悪しきカルマを副次的にではあるが相殺しゆき、愛することの喜びのうちにカルマが相殺されるという一石二鳥にさらに喜び、愛のマスターになるであろう。

よって、愛するとは、我らが内にて、魂として真の同胞である魂たちと愛によって一体化し、共に愛を分かち合うことにほかならず、それは途方もない喜びなのである。特に強調したいのは、見た目の姿を無視するということである。美人とかイケメンとか形態の方はどうでもいい。その背後の魂は、たとえローマ教皇のものであれ、ジョージ・ソロスのものであれ、高市早苗のものであれ、同じ魂であることを早く知り、外観つまり名前のついた誰、といった見た目上の姿かたちを本物と思い込む癖をなくしていきたいものである。そうするならば、すべての者に、本質的に働きかけられるのである。これが愛の伝導体の責務にして最高の喜びである。

この愛にまだ到達していない場合は、日々の瞑想と正しい教えの学習を基盤にして、それを実生活で確実に応用しようという決意が必要である。愛すことは無理でも、より親切になることは可能である。有害な表現を控えることも、知恵によって可能である。絶対に我々は善である愛に徹し生きようと燃えるような意志で生きる必要があり、そうであるならば、なにゆえにその者に神が訪れぬはずがありえようか。おのれの低き波動を常に高き波動で置き換えるという知恵ある生き方に喜んで反応できるようになったとき、対人関係は、一なる魂の調和の中で感じられ知られるようになるだろう。つまり、すべての他者は私なのである。

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