自分に厳しい人も、瞑想すれば、穏やかさに到達し、自分に優しくなるだろう。自分に甘い人も、瞑想すれば、内なるリズムに到達し、彼の規律が至福であることを委ね知るだろう。弱い人も、瞑想すれば、強い自分に出会えるだろう。そして、強さが愛と知恵の別名であり、必然的に無恐怖であることを知るだろう。自分に失望している人も、瞑想すれば、落胆させる情緒から自由になり、静寂の先に平和の主を知るだろう。神や師の恩寵を求める人も、瞑想すれば、正しい音調がすなわち恩寵であったことを知り、波長の一致に助力や守護を見い出すだろう。自分に振り回されている人も、自分は消え去り、女神に抱きしめられ、愛され癒やされるだろう。神と私は一体であり、父は私と共におられ、いま私は神であり栄光であると喜び知るだろう。自分に生きることはなくなるだろう。人は卒業され、人生は神生になるだろう。
生きる理由はなくなる。生だけが残る。生はそして愛を表現するゆえ、生という力は愛に統御されることを喜ぶ。愛であるとき万物は幸福であり、愛し合うとき世界は平和である。愛ゆえに我々は無執着であり、愛ゆえに我々は法則であり、愛ゆえに我々は自由である。我々が瞑想で愛に融合するならば、分離の壁は今すぐ崩壊するだろう。見た目に惑わされることはなくなるだろう。男とか女とか、大人とか子供とか、形態に惑わされることはなくなるだろう。優劣の感覚は去るだろう。裁く相手も、裁かれる必要性もなくなり、形態の背後の生命だけが重要視されるだろう。それだけは分割され得ないことを一体感の中で知り、永遠に生はすべての兄弟姉妹と共に美しく輝くだろう。武器はこの世から消えるだろう。
世の中に批判されるべき人はいない。物質性のフォースが現代では猛威をふるい、その錯覚させる力に屈服している人がいるだけである。彼らが物質界とアストラル界では主流なだけである。我々は、自身を知ることで、批判を乗り越えなければならない。出来事や事件や運命に惑わされず、自分という画面の中に入り込まず、目をつむり、真我によって表面的な錯覚を乗り越えなければならない。我々の武器は傷つけるものではなく、癒やすものでなければならない。物質の誘惑に負けて己れを忘れた兄弟姉妹の見た目や形態の背後に、我々と全く同じ生命が流れていることを流れの中で知り、生命を通じて、彼らに働きかけねばならない。悪人を非難し破壊するのではなく、彼らに悪を行為させる力そのものに、エネルギーを焦点化させねばならない。不正や暴力といった破壊的な行為をさせる力つまりフォースそれ自体は、盲目であり、我々がフォースを操作できるように、そのようなフォースにも主がおり、操作されているだけである。よって、我々が成長し、この種のフォースに愛という癒やす力で立ち向かう知恵が備わるとき、その愛の手腕によって、我々は悪のフォースを操作している者らの注目を受けることになるかもしれず、また物質界とアストラル界で攻撃を受けるかもしれないが、愛と知恵に融合しているかぎり、何も恐れることはないだろう。攻撃の対象になる者は、通常、我々の兄者方の保護の対象にもなっている。
したがって、恐怖を乗り越えなければ、我々は使い物にならない。世の中の出来事で動揺したり、分離した他人の言動で激しく振動したりしているうちは、愛の波動と接触できず、神聖なエネルギーの伝導体にはなれず、癒やし手になることはできない。自分とは誰なのか。この識別力に恐怖心は依存している。自我が自分と感じられても、無視して、瞑想すべきである。やがて、強き王である内在者が立ち現れ、彼が自我における一切の”万能薬”になる。自我は、世の中の錯覚で苦しめられ虐げられるたびに、内に立ち戻り自身が何者であるかを思い出すようになる。神が習慣になる。美しさが愛の習慣になる。強さが平和の習慣になる。そのうち、無知は去り、知恵と識別力が勝るようになり、行為は神に明け渡される。生命という高貴なるエネルギーの流れと一体化する。この流れが保護である。流れに融合するごとに、この神聖なエネルギーの管理者の集団の目に留まるようになり、物質性ではなく、霊性のフォースの一団が、一体性の中の守護団になる。我々が魂のエネルギーと融合し、魂意識を成長させるにつれ、やがてこのような方々の神聖オーラつまり円で囲う守護領域に自らが入ったことを知るだろう。我々の兄者方、はるか昔に我々のような段階を卒業した方々から成る一団の祝福を受けるようになるだろう。それは、我々が愛の伝導体になったからである。なぜなら、兄者方とは愛の一団だからである。