愛の大航海時代

すべての病気は――事故、伝染病を引き起こす傷によるものを除いて――結局のところ、センターの状態に起因する。つまり、エネルギーの流れが乱れていたり、エネルギーが過剰に活動し不適切に方向づけられたり、エネルギーが全く欠乏していたり、エネルギーが活用されず、対応する高位のエネルギー・センターへと変性されずに残っていたりすることで起こる。

アリス・ベイリー「秘教治療上」p.291

周りの者がまた風邪で苦しみ寝込んでいる。私は、このような者たちの肉体よりも遥かに病弱であったが、もう長年、風邪を引くということがない。仮に伝染病でうつされても、つまり何らかの病的なフォースの侵入が認められても、瞑想で、つまり魂の目で「スキャン」して、対象を光の質料で治療つまり融解するか、あるいはほとんどの場合、病気でも健康でも私には無関係なため、あるいは病気というものを認めることがないため、治療せずにいても勝手に治るであろう。完璧とは言わないが、すべては適切なエネルギー管理ができているがゆえであることを私は理解している。私だけが理解していても何の意味もないため、皆に理解してもらうため、もう一つ引用しよう。

フォースが意識に影響を与えるのを打ち消す、エネルギーへの強調であり、これが障害を乗り越えさせてくれるのである。この文章を熟考しなさい。なぜなら、これは健康状態に関する将来における正しい対処法の鍵を秘めているからである。

新時代の弟子道2 p.147

これは健康状態のみならず、すべてに言えることである。弟子が発見するのは、高位のエネルギーで、この世のあらゆる迷惑な現象や状態を引き起こしているフォースを相殺することができるというものである。風邪で寒気や悪寒がひどいと人は言う。冷たい水にお湯を注いだら熱くなるのと同じで、フォースにエネルギーを注げば意識に影響を与えるのはエネルギーだけであり、したがって常に至福である。

エネルギーと神の意志は同義語である。エネルギーの流れこそが、本来、我々が一致すべき流れであるが、「個人の私」という感覚からの思考・言葉・行為は、個人的な私によって歪められたエネルギーつまりフォースであり、これがすべてのカルマの原因である。肉体などの諸体が神の意志に使われるとき、カルマは生じない。逆に諸体が個人という錯覚の下で使われるとき、何らかのカルマを生み出す。この意味で、カルマとは真に神学である。適切なエネルギー管理とは、適切な自己管理であり、適切な識別の維持であり、意識的な一致融合のことである。このとき、個人の面倒を見るのは神である。ゆえに、個人は不必要にこの世のことに悩まされる必要がない。まだいくらか太刀打ち出来ないフォースがあるだろうが、それを除けば、大部分において弟子はこの世の障害から自由になることができる。

病気つまり気の病いについてだが、積み重なった気の乱れが現象的に結実し、特定の病気を発症させたとしても、私ならば、それを病気とは認めない。「私は病気になった」とは思わないし受け入れもしない。何であれ、ただ無執着にエネルギーとフォースの流れの状況が観察されるだけである。肉体は病気であっても、私自体は永遠に無病であり、意識は肉体の病気を映すことなく、霊の栄光と美と至福のみが映し出されている。肉体を自分と思うならば、病気を体験するだろう。あらかじめ瞑想と真理の追求に生きてきたならば、低位我を自分とみなすことはないため、意識は肉体の影響を受けず、ひたすらに神の宴に酔い痴れているだろう。人は、何か起きてから「助けてください」と言うが、賢き者は、まず最初に助ける神との一体化を目指す。これは、一体化を目指す自我が、自身というフォース体に働きかけようとしている神のエネルギーを瞑想と学習と奉仕を通して発見し、そのエネルギーに流れと生き方を鞍替えすることにより達成される。その代わり、個人は犠牲の祭壇に捧げられる。

そういえば、「方向づける、ということ自体がすでに努力や行為ではないのか」という質問があった。人間は四六時中、何かに注目している。スマホを見たり誰かと会話したり。このような四六時中の注目の移り変わりは、その都度、努力であろうか。この自動人形的な注目の変遷に待ったをかけ、意識的に注目を内に向け直すことが、はたして努力や行為であろうか。努力とは、力を努めると書いてある通り、本来の力を個人的に利用するために努めることを指している。したがって努力は苦痛なのである。もし、本来の力が指し示す方向にだけ方向づけられており、つまりエネルギーが誤って別のフォースに同調したり、方向転換させられたり、純粋な流れを逸脱させられたりしないように、意識が適切にエネルギー管理すなわち「エネルギーへの強調」なる集中を賢くも維持するならば、それは最も努力とは真逆の自然な在り方である。それゆえに至福なのである。

日本語や漢字は、よく見ればそれ自体が教えである場合が多い。「病気」は気の病いである。エネルギーの不適切な管理の結果である。「つまり、エネルギーの流れが乱れていたり、エネルギーが過剰に活動し不適切に方向づけられたり、エネルギーが全く欠乏していたり、エネルギーが活用されず、対応する高位のエネルギー・センターへと変性されずに残っていたりすることで起こる」。このような自身による医療ミスをなくすのが瞑想である。乱れた気を整えることを教えるのが瞑想であり、魂の役割である。この世の教師ではなく、また書物でもなく、各々が瞑想で魂に直接習い、直接融合し、「フォースが意識に影響を与えるのを打ち消す」ことが常態になるならば、何の不安も心配も恐怖もない。死すべき個人をおのれとして執着する者だけが、そのような無知ゆえに、病気を含めたあらゆる障害を経験させられる。そこから何かを学ばないと、治っても、また病気になるだろう。気の仕組み、すなわち法則自体を融合によって知らなければ、まやかしのフォースに騙されるばかりで、気は乱れるばかりで、我が内にて気の調和を達成することの重要性も意味も分からぬままであろう。それだけは避けねばなるまい。

もし気が調和するならば、その者は愛に支配される。一体ゆえの愛である。あらゆる恐れを打ち壊すのはこの愛である。そして愛は、それに到達するまでは理解不可能な概念でしかない。調和させたときだけ花開く偉大な神の美しきエネルギーである。愛は外向きであり、常に万物との愛の分かち合いを意志し望んでいる。この愛を閉ざすのが個人である。拡大された一体の愛意識を閉ざすのが、拡少された個人意識への執着である。自分に生きるのをやめて、もっと苦しんでいる人たちのためだけに生き、自分には一つの報酬もいらないという生き方へと自身を解放するならば、自我は楽になるであろう。その楽とは、神の流れに近づいた証である。神の流れに逆らわなくなるゆえに、自我は魂と接触するようになる。自分のために生きるという閉じた生き方をせず、門戸は開かれ、個人という鎖国がキリストなる大航海時代へと開かれているがゆえに、我々は初めて神と対面し、交わりが可能になるのである。

ここで書けなくなったゆえ終わる。多少は書いたはずだから公開する。文章を読んで、どのような経路で書き手が根源の意識に引きさらわれていくのかを見るならば何かしら発見があるかもしれない。

目次